実に彼は、教会の中で司祭の栄誉を授けられ、極めて禁欲的で大いに哲学的な生活を送り、宗教の清浄な規律を守り、他の諸々の事柄よりも先に神の言葉と教えに労力を割いた。それゆえ、それらのことから――特に、彼がほとんど毎日、教会の中で随時に行った数々の論考[1]と、速記者たちが後世のための記録として筆記して伝えた諸々の論考を通して――、彼の労苦と勉学の最も確かな証拠の数々が我々に示されるのは、何人にも疑い得ない。したがって、彼の諸々の労苦と諸々の勉学との以上のすべての諸々の証拠から、そのような人物を把握しなければならない。また、弁護の熱意に駆られて、尺度が求める以上の功績を彼に与えるべきでもなく、逆に、誹謗するという悪徳に駆られて彼を軽々に断罪し、彼が教会の教えと無縁であると軽率に公言してはならない[2]。なぜなら神的な言葉は、その両極端をあらかじめ予見し、禁じているからである。神的な言葉は言う:「あなたの内に、大きな升も小さな升もあってはならない。両者は、主のみ前で忌むべきものだからである[3]」。各人に相応しいものを授与すること、それが正義に固有の業である。それゆえ、「過不足ない升と等しい重りが、主の許で受け入れられる[4]」――諸々の功績が求める以上のものを諸々の事柄に与えたり、諸々の功績から然るべきものを差し引くことによって、真理を捏造するものは受け入れられない。



[1] 「講話」(説教)をさす。

[2] オリゲネスは、生前、自分について行き過ぎた賛否両論が渦巻いていたことを嘆いている。『ルカによる福音注解』25,6 (拙訳)を参照せよ。

[3] Cf.Pr.20,10.

[4] Cf.Pr.11,1; 20,10; Dt.25,15.

 

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