b祈りの完成
完徳の頂き、それはまた、祈りの状態でもある。すなわち、愛の内に神と一つに結ばれた生活である。実際カッシアヌスは、「祈りの状態(26)」について語っている。状態という言葉は、なにかしら移ろいやすいものを意味し得ない。それは、習性(
habitus)と同じように、安定性、もの静かな所有(tranquille possession)を意味している(27)。祈りの状態は、したがって、入れ替わり起こる祈りの行為の連続を意味するのではなく、魂の習態的な構え・態勢(disposition habituelle)である。それが完徳の状態と呼ばれる。祈りの状態は、聖書によって提出されるさまざまな形態の祈りが導く頂点である。「さまざまな祈りの形態の後に、さらにもっと崇高な状態、しかももっと卓越した高揚が続く。それは、ただ神だけに向けられた眼差し、愛の大いなる炎である。魂は、その眼差しに融け込み、聖なる愛に沈潜する。そして魂は、まったく独特で、たおやかな敬愛の心に包まれて、自分自身の父親に対するかの如くに、神と親しげに対話する。この状態へと向かう我々の義務がどのようなものであれ、主の祈りの文言そのものが、我々にそのことを教えている。なぜなら主は、『天にましますわれらの父よ』とおっしゃっているからである(28)」。
祈りの状態、それは神との一致であり、神の子どもとしての祈り、神との打ち解けた家庭的交流である。それは、天上の生活の先取りであるがゆえに、完徳の頂である。この状態は、心の完全なる清らかさ、完全なる愛徳を前提としているのがわかる。祈りのこの状態は、精神と心の永続的な態勢(
disposition)なのである。完全な祈りは、神の国の先取りである。祈ること、それは、「聖なる者たちに永遠に約束された至福な状態の似姿を幾ばくかでも現世に再現することであり、『神がすべてにおいてすべてになる』という使徒の言葉が、我々に対して実現するようにすることである(29)」。祈ること、それは、神に似た者になることであり、愛である神に参与すること。それは、愛において可能なかぎり恒常的に神と一つになることである。祈りというものがこのように理解されれば、それはたしかに、神の国と同じように、ひとつの到達点である。カッシアヌスはこのことを、彼の第11講義において実にみごとに詳論している。
ドミニコにとって観想は、神秘的な恵みから立ち上る独特な調べを持つ。彼がカッシアヌスを師とし、その霊的戦いを行いながら到達した観想の最高の段階は、なによりも、人々の救いのためにご自身を捧げ十字架に付けられたキリストの観想であった。ドミニコは、十字架上のキリストを観想しながら、罪人たちに対する主の愛を分かち合い、本当の愛を学んだのである。