カッシアヌスとドミニコ
ジョルダノ・ド・サクスは、オスマでのドミニコの描写を、ドミニコがカッシアヌスの読書をとおして受け取った霊的養成で締め括っている。彼は、この洋の東西を股に掛けた霊的指導者カッシアヌスをわずか数行でみごとにまとめている。したがってドミニコただひとりが話題になっているのではない。彼と同じくカッシアヌスを師として養成された最初期の諸兄弟が話題になっているのである。このことは、ローマのフンベルトによっても確認される。すなわち彼は、カッシアヌスを、修練長が修練士たちに読ませなければならない著作目録に載せているのである。またフンベルト自身、とても頻繁に、「諸講義」(
Conférences)を引用してる。そこでわずか数頁にしか満たないものであるが、本稿の目的は、「小著」(Libellus)第13号の最終部分を注釈することである。その本文は以下のとおり。救い主と同じ姿になるという途方もなく大きな願望は、ドミニコがオスマの参事会員であったとき、彼の心に満ちていた。その願望は、夜を徹した祈りのなかで神に求めた願いの核心にあった。
ドミニコは、十字架に付けられたキリストと完全に同化しようと願っていた。彼は、キリストと同様に、救霊のためにすべてを上げて自分を捧げようと願た。そして彼は、神がご自分のおん子の奉献を受けいれたように、自分のすべてを上げた捧げ物を受けいれてくださるように神に願っていた。この奉献によって彼は、十字架上のキリストと同様に、自分自身を完全に虚しくした。途方もなく大きな愛から生まれるこの最高の謙遜とキリストと同じ姿になろうという願望とが、自分をして神の手中にある御し易い道具とし、救霊の協働者とするのだということを、彼は知っていたのである。救いの業へのこの参与は、彼が本当にキリストの肢体となるために不可欠のものであった。なぜならそれは、キリストの肢体を新たに生み出すのに貢献するからである。肢体というものは、それがすっかり出来上がった身体に属していないとすれば、肢体という名に値することができるのだろうか。
神への自分自身の完全な委託がなければ、救霊のためにドミニコが費やし得たすべてのエネルギーは虚しいものとなろう。この自分自身の奉献は、人々の救いのための、あらゆる形態の具体的な奉仕に先立たねばならなかった。オスマでのドミニコの祈りは、いわば説教者会の「神秘的な」基なのである。
しかし神のみ手での全面的な待命(
disponibilité)がなければ、また、深い回心による救いの体験をみずから持たなければ、どうして人々の救いのために働くことができようか。ドミニコもまた、救いの小道を探求し自らそれを辿ることから始めたのである。彼は、カッシアヌスの傍らでこの道を問い求めた。救いの小道を登ること、それは、たしかにカッシアヌスの著作の内容である。ジョルダノは、この道の経験豊かな玄人として、この内容を、悪徳に対する戦いおよび霊的完成の獲得として簡潔かつ正確に要約している。