霊的完成

 

カッシアヌスがその著作のなかで語ろうとしていたのは、完成すなわち完徳についてである。彼は、その最初の著作「共住修道会則」(Institutions cénobiques)の序文で、完全な生活とそれに導く道について語りたいと告げている(5)。そしてその著作の第1部を締め括る第4巻は、有名な「着衣式講話」についての報告を行っている。それは、完徳の諸段階を手短に要約して示す。

「したがってここで、あなたがどのような段階を経て、なんの苦もなく、またなんの困難もなしに、最高の完徳に昇り詰めることができるのかを、いくらか述べておくことにしよう。聖書によると、我々の救いと我々の知恵の『元は、主を畏れること』である。主への畏れから、救いをもたらす痛悔(componction)が生まれる。心の痛悔から断念(renoncement)すなわち剥奪 (nudité)とすべての富の軽蔑(mépris)とが生じる。剥脱は謙遜 (humilité)を産み、謙遜から意欲の滅却 (mortification)が生まれる。この滅却は、悪徳を根絶やし、萎れさせる。悪徳の拒絶は、諸徳をしてその実を結ばせ成長することを可能ならしめる。諸徳のこの豊かさは、心の清らかさをもたらす。使徒的愛徳の完成は、心の清らかさによって獲られるのである(6)」。

畏れ、痛悔、断念、謙遜、意欲の滅却、悪徳の拒絶と諸徳の成長、心の清らかさ、愛の完成、これらこそ完徳の道であり、また、その行き着く先に「使徒的愛徳の完成」という「最高度の完成」がある。この同じ教えは、「会則」第2部の結びの部分にも見出される(7)。その個所でカッシアヌスは、それらの徳がなければ、「我々の心は聖霊の住まいになり得ない」と付け加えている。したがって聖霊に満たされること、これが最高度の完成なのである。

カッシアヌスは「講義」第1巻の序文で、観想へと方向付けられた生活の織りなす「完徳の頂点に、必須の義務」を読者に教えたいと述べている。ここに、完徳と観想との間に関連のあることが確認される。

「講義」第2巻の序文でカッシアヌスは、「それまでの自分の小論が完徳について不明瞭にあるいは不完全に提示したこと」を補足したいと提案する。そこで彼は、いかにして愛徳が、さらには養子縁組(adoption filiale)が、人間の神的召命の成就となるのかを示す完徳についての講義から始める(8)。完徳あるいは愛徳は、したがって洗礼によって始められた生活の充実(plenitude)であり、完全無欠のキリスト教的生活である。

このような霊的完成を、ジョルダノ・ド・サクスは、良心の清らかさ、観想と完徳の大いなる頂、という三点にまとめている。次に私たちは、カッシアヌスがこれら三つの項目に与えた内容を究明することにしよう。

 

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