良心の清らかさ

カッシアヌスは、実践(praktikh,)と観想(qewri,a)という2つの道を区別する。各々の道はさらに、さまざまな段階を含んでいる。実践は観想へと通じる。しかし実践はそれだけで存在することができるの対して、観想はどうしても実践の後に続かねばならない。実践の頂は、修道生活の目標である心の清らかさ、あるいは愛の内にある。

「使徒によると、その到達点は永遠のいのちである。すなわち、『あなた方は、聖性を実りとし、永遠のいのちを目標とする』。我々の目標は、心の清らかさである。そしてこの清らかさが、使徒によって正当にも、聖性と名付けられているのである。この清らかさがなければ、この目標には到達できないだろう。言い換えると、あなた方の目標は、心の清らかさの内にあり、あなた方の到達点は永遠のいのちなのである(9)」。

目標、それは心の清らかさであり、聖性あるいは愛徳に他ならない(10)。それは、神の清らかさへの参与であり、したがって恵みである。それゆえこの目標が、生活のすべてを律しなければならない。なぜなら聖パウロがいっているように、「私に愛がなければ、いっさいは私に無益」(1 Co 13,3)だからである。清らな心は、もはや妬み、傲慢、怒りなどを知らない(1 Co 13,4)。

良心の清らかさは、いかにも愛であり、エルサレムの最初の共同体が生きた「使徒的愛徳の完成」である。実際、完徳は、カッシアヌスにとって、彼が訪れた修道士たちにとってと同様、基本的にこれらの最初のキリスト教徒たちの完全なキリスト教的生活なのである。事実、その当時の教会は、社会のなかで名誉ある地位を占めていたし、影響力を持っていた。しかしその見返りとして、異教の俗習がキリスト教徒たちを汚染したりもした。ともかく原始教会は、教会史のなかで常に見直されるべき理想となっていた。

「使徒たちの時代の炎がいまだに燃えている人たちは、いにしえの日々の完徳の思い出を忠実に守り、町を捨てた。そして彼らは、締まりのない生活を取り巻く怠惰が、自分自身にも、あるいは神の教会にも許されると思い込んでいた者たちの集まりを捨てた(11)」。

 

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