a愛の完成

 

カッシアヌスは、「講義」XIで、完徳について詳細に述べている。彼はそのなかで、いかにして信仰あるいは畏れから、希望を経て、愛へと昇るのかを示す。

「この完徳は、さまざまな段階を含んでいる。主はその頂点から、我々がもっと高い頂に登るようにと呼びかけている。神の畏れの内に幸いとなり、完全となった人は、聖書に書かれているように、『徳から徳へと』、『完徳から完徳へと』昇る。すなわちその人は、熱く燃える魂の敏捷さの内に、畏れから希望へと昇っていく。次いで彼は、愛徳というさらに聖なる状態に到るように招く神の呼びかけを耳にする。ここで『忠実で思慮深いしもべ』となった者は、愛と養子縁組による親密な交わりに入る(20)」。

この養子縁組という恵みは、人類に対する神の永遠のご計画である。それは洗礼によって私たちに与えられ、キリスト者を特徴付ける。

「我々もまた、揺るぎない愛の恵みによって、この子どもたちの第三の段階に速やかに昇っていこう。この子らは、自分たちのおん父に属する一切のものを自分のものであるかのように眺めている。我々もまた、我々の天のおん父の像と似姿とを我々自身のなかに受け取るに相応しい者となろう。そのとき我々は、真のおん子に倣って、こう宣言することができるだろう。『私の父のものはみな、私のものである』と(21)」。

そこでカッシアヌスは、「あなた方の天のおん父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」(Mt, 5,48)という主の掟を果すように提案する。「真の完徳」に昇ることは、神が私たちを愛されたように愛することであり、神の愛のゆえに神を愛することである。この愛徳の段階に到達した者は、愛し、そしてすべての徳を実践する。彼は、おん父に似た者となり、隣人への同情に満たされる。「罪人たちの反逆はもやは彼を苛立たせない。かえって彼は、罪人たちの弱さに対して大きな憐れみと同情とを痛切に感じ、彼らの赦しを切願する」。彼は神に助けられて、完徳に関するあの福音の掟を果すことができる。すなわち、「あなた方の敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい。あなた方を迫害し、あなた方を謗る者たちのために祈りなさい」(Mt, 5,44)。このようにして彼は、子どもの資格を得ることができる。「最後に、聖書でいわれているように、天におられるあなた方のおん父の子どもとなりなさい」(Mt, 5,45)。子どもとなった者は、主と同じように憐れみと同情に満たされる。カッシアヌスは聖パウロに続けてこう叫んでいる。「愛よりも貴重なもの、完全なもの、崇高なもの、そして言うなれば永遠なものは、なにもありません」キリスト者にとってもっとも貴重は善は、もっとも普遍的な善、すなわち愛なのである。なぜなら愛には、永遠という値打ちがあるからである。愛は聖性と同義語である。

「ただ『愛だけがけっして滅びない』。・・・なぜなら愛が我々の利益のために我々の内で働くのは、この世だけに限られないからである。愛は来るべき代においても、かずかずの身体的欲求の重荷を引き降ろして、存在し続ける。そればかりか愛は、より効果的なもの、より優れたものとなる。愛は、あらゆる転変から永久に解き放たれ、永遠の不滅の内に神に寄りすがり、より激しく燃える。そしてより深く親密な交友を結ぶ(22)」。

しかしながら、さらに優れた段階がある。それは「愛による畏れ」(la crainte d'amour)である。初心者たちの抱く畏れは、もはや問題とはならない。むしろ「愛による全き自由」(la pleine liberte de la charité)、「神の子らと神の友らに特有の信頼(confiance)」が問題なのである(23)。それは(腹蔵のない素直な)闊達さ(parrhsi,a)である。その言葉は、聖パウロの書簡では、神の子らの自由を意味し、聖ヨハネでは自分たちのおん父への子どもらの信頼を示している(24)。闊達さは、自由の完成である。それは、人間を完全に自由にする。それを欠く者は、奴隷的な畏れの内に生きている。これが聖パウロの教えである。

「聖パウロは、完全な愛によっておん父への愛に燃え立ち、しかもこのようにして奴隷としての身分から神の養子縁組によって神の子どもとなった人たちをこう激励している。『あなた方は、人を再び畏れに陥らせる奴隷の霊を受け取ったのではありません。あなた方は神の子とする霊を受け取ったのです。この霊において私たちは、<アッバ父よ>と叫んでいます』(Rm, 8,15)と(25)」。

この畏れは、キリストに満たされた(Is, 11,2)完全者たちの抱く畏れである。

完全な愛、それは結局、父親が息子の品位にまで立て直した放蕩息子の取る態度そのものである。そしてこの段階に到達した者は、主と同じく、隣人への憐れみと同情に満たされる。聖ドミニコがオスマで夜通し神に願っていたものは、この愛であった。

 

次へ