10 次に、彼らが信仰の問題についてとやかく言い騒いでいるので、こう言わなければならない[1]。信仰を多くの人々にとって有益なものとして受け取る我々は、すべてを捨ててみ言葉の吟味を追及することができない人たちに、まさに理性を用いずに信じるように教えていると告白する。そしてあの人たちは、このことを告白しなくても、事実上同じことを行っているのである。そもそも、哲学に出会って偶然に、あるいは特定の教師に恵まれて、哲学者たちの一学派に身を委ねる人は、その学派が(他の学派に)優っていると信じて、そうするのではないだろうか。確かに人は、すべての哲学者たちや様々な学派の説を聞き、特定の説の反駁や他の説の支持を聞いた上で、ストア派やプラトン派、ペリパトス派、エピクロス派、その他の哲学者たちの学派の学徒になることを選ぶのではない。あの連中は認めようとしないだろうが、人は、何らかの非理性的な動きに駆られて、たとえばストア派の説を実践して他の説を斥けること、あるいはプラトン派の説を実践して何か高踏な考えを抱き、他の説を低級なものと考えること、あるいはペリパトス派の説を、他の学派に優って人間的な善を寛大に認めるもっとも人間的な説と見なして実践することに至るのである[2]。そしてある人たちは、地上で卑劣な人たちや有徳の人たちに起こる数々の出来事から行われる摂理に対する批判に動揺して、摂理がまったく存在しないとすることに性急に同意して、エピクロスとケルソスの説を採用したのである。したがって、以上の議論が教えているように、ギリシア人においてであれ、夷狄においてであれ、様々な学派を立ち上げた人たちの一人を信じなければならないとすれば、いわんや、万物に臨む神、ただその神だけを畏れ、その他のもの――存在するものであれ、存在しても尊敬や崇拝、畏れにまったく値しないもの――を見過ごすように教える方をどうして信じてはならないのだろうか[3]



[1] ここでいう「彼ら」とは、信仰の有用性を否定する理性主義者(哲学者)である。

[2] Cf.Aristote, Eth.ad Nicom. I. 13, 11021, 13.なお、オリゲネスは、アリストテレスの説に賛同しない。Cf.Comm.Ps.4.

[3] オリゲネスは、信仰の有用性を否定する理性主義者でもなく、理性を否定する急進的な

信仰至上主義者でもない。彼にとってロゴス・キリストに従うことは、理性(ロゴス)の要求に従うことであるが、理性は、根本的に何らかの信仰に基づいており、その根本的な信仰を前提にして初めて人間の思惟と行動を「正しく」導くことができるのである。

 

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