20 しかしケルソスは図らずも、宇宙が比較的新しいもので、まだ千年にも満たないと証言する破目に陥っているのである。彼はこう言っている。「ギリシア人たちも、これらのことが太古のことであると考えている。なぜなら彼らは、洪水や大火のせいで、それよりも古いことを考えたこともなければ、記憶にも留めていないからである[1]」と。そこでケルソスには、大火や大水の氾濫について教えるエジプト人の教師たちがいるとしよう[2]。ケルソスによれば、彼らはもっとも賢いとされている。しかし彼らエジプト人たちの知恵のしるしは、彼らが伏し拝む非理性的な動物たちであり、彼らの議論は、神へのこのような奉仕が理にかなったことであり、何かしらを含み持つ神秘であるとしているのである。そしてもしもエジプト人たちが、動物たちに関する自分たちの議論をほめそやして、神学的議論を提出するなら、彼らは賢い者となる。ところがユダヤ人たちの律法と律法家とに同意する人が、すべてを万物の唯一の造り主である神に帰すると、その人は、ケルソスや彼に類する人たちのもとでは、理性的で死すべき動物にばかりでなく、非理性的な動物にまでも神性を引きずりおろす人たちよりも劣っていると見なされるのである。しかしこのような考えは、魂が天蓋から落下して、非理性的な動物――家畜ばかりでなく、もっともどう猛な動物――にまで降りてゆくとする神話的な輪廻転生[3]にまさって愚かなものである。そしてもしもエジプト人たちが神話を語っても、彼らは、数々の謎と秘密をとおして哲学をしていたと信じられるのに対して、モーセが民全体のために物語を編纂し、律法を彼らのために残しても、彼の言葉は空虚な神話であり、比喩的解釈を受け付けないと見なされているのである。これが実に、ケルソスとエピクロス派の人たちの考えである。



[1] Plato, Timaeus, 23 A,B.

[2] プラトンによると(Timaeus, 22)、宇宙的大火の神話は、エジプトの祭司の口を通して語られている。

[3] h` muqikh. metenswma,twsij.

 

次へ