21 さて、ケルソスが言うには、モーセは、知恵ある諸民族や著名な人物たちのもとにあるこのような教えを聞き知って、ダイモンに等しい名前を得たとされる[1]。このことに対しても、こう言わなければならない。モーセがもっと太古の教えを聞き知って、それをヘブライ人たちに教えたと言うケルソスの説に同意すると仮定して、もしもモーセが知恵もなく厳かでもなく偽りに満ちた教えを聞き知って、それを自分のもとにいる人たちに伝えたとすれば、モーセは非難されるだろう。しかしもしもモーセが、あなたが言うように、知恵があり真実の教えの数々に同意して、それらの教えを通して自分に従う人々を教育したとすれば、彼は、非難に値することを何かしたであろうか。エピクロスも、エピクロスほどではないが摂理に対して不敬な考えを抱くアリストテレスも、神を物体だと言うストア派の人たちも、このモーセの教えを聞き知っていればよかったのだ。そうすれば宇宙は、摂理を斥けたり、それを二つに分けたり[2]、何か物体的で可滅的な原理を導入したりする教えに満ちることもなかっただろう。ところでこの物体的で可滅的な原理によると、まさに神は、ストア派の人たちにとって、物体となっているのである。ストア派の人たちは、神が可変的で、全面的に変容し、別のものになる、要するにもしも腐敗する要因を内蔵しているとすれば、神は可滅的なものであると言ってはばからない。しかし(ストア派によれば)神を滅ぼすものが何もないので、神は、幸運にも腐敗しないですんでいるという。ところが神の不変性と不変容性を保持するユダヤ人たちとキリスト者たちの教えは、不敬であると見なされているのである。なぜならそれは、神について不敬なことを考える人たちと同じ不敬を働いていないからである。ユダヤ人とキリスト者の教えは、神的なものへの数々の祈りの中で次のように主張する。「しかしあなたは同じ方です[3]」と。また神は、「私は変わったことがない[4]」と言ったということが信じられている。



[1] ギリシアやローマの知識人の間では、モーセが、驚異的な力を持った魔術師として知られていた。Pliny, N.H.30,11; Apuleius, Apol.90. Strabo, 16,11,35.

[2] これは、アリストテレスの教えで、オリゲネスは、『ローマ人への手紙注解』(3,1)で、次のように言っている。「彼らは神の摂理を制限して、摂理は月の球面に及ぶと主張している。月下には、すなわち人類のところには、摂理はほとんど降りてこないと主張する」。

[3] Ps.101,28.

[4] Ml.3,6.

 

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