26 次に我々は、すべてを知っていると公言するケルソスが、どのようにしてユダヤ人たちを中傷しているか見てみることにしよう。ケルソスは、次のように言っている。彼らは、天使たちを崇拝し[1]、モーセが導き手になって彼らに教えているところに魔術にうつつを抜かしていると。一体ケルソスは、モーセの書のどこに、この立法者が天使たちを崇拝するよう定めた個所を見出したのか言うべきである。彼は、キリスト者たちの事柄とユダヤ人たちの事柄を知っていると公言しているのであるから。また、モーセの律法を受け入れた人たちの間で、どうして魔術が存在するのだろうか。彼らは、「あなた方は魔術師たちに近づいてはならない。彼らによって汚されるといけないから[2]」という言葉を知っているのである。次にケルソスは、どのようにしてユダヤ人たちが、無知に躓き、誤りに陥ったのか教えようと約束している。もしも彼が、イエス・キリストについての諸々の預言に耳を傾けなかったユダヤ人たちの間に、キリストについての無知を見出したなら、彼は、ユダヤ人たちがどのようにして躓いたのか本当に教えることができただろう。ところが彼は、このことを明らかにしようともせずに、躓きでないものをユダヤ人の躓きであると憶測したのである。

 ところで、ケルソスは、ユダヤ人たちの問題について後で教えると約束した上で、我々がキリスト者として生まれた限りにおいて指導者となっているところの我々の救い主について初めて論じている。そして彼は、こう言っている。すなわち、救い主は、ほんの数年前に、この教えを確立し、キリスト者達によって神の子として信じられていると。救い主について、彼がまさに数年前にいたということについては、我々も主張しよう。しかしはたして、これほどわずかな年の間に、ご自分のみ言葉と教えの普及を望んだイエスが、次のことを神の助けなしにできただろうか。すなわち我々の居住する多くの場所で、少なからざるギリシア人や夷狄の人たちが、知者や愚者の如何を問わず、イエスの言葉に賛同し、しかも死ぬまで戦ってイエスの誓絶を拒否したことを――他の教えのためにこのようなことを行った者は誰も報告されていない。ともかく私としては、み言葉を誇張することなく、問題の注意深い検討を試みて、次のように言いたい。多くの病んだ体を治療する人たちも、神の助けがなければ体の健康という目的に達することができないと[3]。また、もしもある人が、悪の氾濫や放縦、悪行、神的なものの軽蔑から諸々の魂を解放することができ、その業の証拠として、数にして百名の改善者を挙げることができたとすれば――ただしこの数は議論上のものとする――、その人は、これほどの悪徳から救い出す教えを百人もの人々の中にもたらすには、神の助けが必要だと、当然、言うことだろう。ところで、もしもある人がこれらの事柄を慎重に考察して、神の助けなしには優れたことは何一つ人々の間に生じないということに同意するなら、イエスについては同様のことをどれほど大胆に証明できることか――彼の教えに近づいた多くの人の以前の生活をその後の生活とともに検討し、それらの人々の一人ひとりが、ケルソスや彼と同じ考えを抱く人々が言っているように欺かれて、彼らが言うところの人間の生活を台なしにする教えを受け入れる前に、どれほどはなはだしい放縦、不正、貪欲に陥っているかを考えてみるなら。しかしこれらの人々は、(イエスの)教えを受け取ってからというもの、どれほど節度や品を持ち、しっかりしたことか。その結果、彼らのうちのある者は、卓越した清さへの愛の故に、そして神的なものをより誠実に敬いたいという希望に駆られて、法律によって認められている愛欲にも手を染めないのである。



[1] ユダヤ人の間の天使崇拝については、Col.2,18; Clem.Al.Strom.VI,41,6; Origen, Com.Jn.XIII,17; Aristides, Apol.14. なお、四世紀の中頃のラオディケアの教会会議は、ユダヤ化傾向にあったキリスト信者に対して、天使崇拝の禁止を命令している。

[2] Lv.19,31.

[3] Cf.Clement, Protr. CX,1.

 

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