27 また、事実を仔細に検討するひとは、イエズスが人間本性を超えることを敢えて行い、しかも敢えて行ったことを成し遂げたことに気づくだろう。イエズスの教えを全居住地に広めることに対して、元からすべてのものが反対した――その時々の王たち、王に服属する大将軍、一口に言えば何らかの権力を手中に収めるすべての支配者、更には各都市の指導者や軍人、民衆が反対したのである。ところが神のみ言葉としてのイエズスは、その本性上、妨げられることはなくかえって勝ちを収め、これほど多くの敵対する者たちよりも強い力を持っているため、全ギリシアばかりでなく夷狄をも支配したのであり、無数の魂をご自分の教える敬神へと向け変えたのである。ところで、素人の人たちや無教養な人たちの方が、諸々の学説の教育を受けた人よりもはるかに多いのであるから、み言葉に説き伏せられた多くの人々の中では、素人の人たちや無教養な人たちの方が、理解力のある人たちよりもはるかに多いのは当然である。ところがケルソスは、このことを理解しようとはせず、まさに「日の昇るところから[1]」すべての魂に及ぶみ言葉の人類愛が無教養なものであり、その無学と無教養の故に、素人しか説き伏せないものと思っている。とはいえ彼も、素人の人たちだけがみ言葉によって、イエズスによる神崇拝へと導かれたのだとは言っていない。実際、彼は、彼らの中には、節度のある人も、公正な人も、理解力のある人も、比喩的解釈に堪能な人もいることを認めているのである。



[1] Ap.7,2; 16,12.

 

次へ