34 とにかく、ユダヤ人の作り話に対して、「インマヌエルが乙女から生まれる[1]」というイザヤの預言を引用するのが適切であるように私には思われる。ケルソスは、この預言を引用しなかったが、それは、すべてを知っていると公言しておきながら知らないので、この言葉を引用しなかったか、あるいは、自分の意図に反対する聖書の言葉を不本意に持ち込んでいると思われないようにするために、その預言を読んでいながら意図的に沈黙しているかのどちらかである。さて聖書には次のように書いてある。「そして主はアハズに向かってこう言われた。『あなたは、あなた自身のために、あなたの神なる主から、深みに、あるいは、いと高きところにしるしを求めよ』。そしてアハズは言った。『私は(しるしを)求めるつもりはありません。主を試すつもりはありません』。『ダビデの家よ、あなた方は聞きなさい。あなた方は、人間達にもどかしい思いをさせるだけでは足りないのか。どうしたあなた方は主に対してももどかしい思いをさせるのか。それゆえ主は、みずから、あなた方にしるしを与える。見よ、乙女がその胎に身ごもって、男の子を産む。あなたはその子を、インマヌエルと呼ぶ』。この言葉を訳すと『主は我らと共に』ということになる。ケルソスが偽って、この預言を引用しなかったことについては、彼がマタイによる福音から多くの箇所、たとえば「イエスの誕生のとき昇った星」といった言葉やその他の逆説的な箇所を引用しているにもかかわらず、このイエスの誕生の元については言及しなかったことから明らかであると私には思われる。他方、もしもユダヤ人が巧妙な口実を繰り出して、「見よ、乙女」という言葉は書かれておらず、「見よ、少女」という言葉がその代わりに書かれていると言うのであれば、我々は彼に対して次のように言いたい。七十人訳が「乙女」と訳し、その諸書が「少女」と訳している(ヘブライ語の)アルマという言葉は、彼らが主張するように『申命記』にもあるが、それはまさに乙女に関してであると[2]。こう書かれている。「男と婚約をした乙女の女の子がいるとする。そしてある男が町で彼女に出会い彼女と寝たとする。その場合には、二人を町の門の外に連れ出しなさい。そして彼らは石によって石打ちされ、死ななければならない。少女は、町で叫びを上げなかったという理由で。男は、自分の隣人の女性を辱めたという理由で」。続けてこう書かれている。「しかしもしもある男が、婚約している女の子とを野原で見出し、彼女に乱暴を働いて彼女と寝るならば、その女とねた男だけを殺しなさい。少女には何もしてはいけない。少女には死に当たる罪はない[3]」と。



[1] Is.7,10~14. Mt.1,23.

[2] 「少女」(nea/nij)という言葉は、アキラ訳、シュンマコス訳、テオドチオン訳に見出される。本文に挙げたユダヤ人側の解釈は、既に知れわたっていた。Cf.Justin, Dial.,43,8; 67,1.「乙女」(parqe,noj)という七十人訳の言葉は、古いユダヤ人訳である。なおヒエロニムスのイザヤ書注解7,14を参照せよ Virgo hebraice bethula appellatur, quod praesenti loco non scribitur; sed pro hoc verbo positum est alma, quod praeter LXX omnes adolescentulam transtulerunt. Porro alma apud eos verbum ambiguum est; dicitur enim et adolescentula et abscondita ....

[3] Dt.22, 33~36.

 

次へ