38 更に彼は、『マタイによる福音』に書き記されている歴史から、イエスがエジプトに出て行ったことを受け取っていながら、これにまつわる諸々の不思議を信じもしなければ、これが天使のお告げによることも信じもせず、またイエスがユダヤを後にしてエジプトに滞在した出来事が何かを暗示していることも信じようとしない。その代わり彼は、別の物語を作り上げた。そして彼は、イエスが様々な不思議な力ある業を行って、多くの人々がキリストとしてのご自分に従うように説得したことに同意しておきながら、それらの力ある業を、神的な力によってではなく、魔術によって行われたものとして批判しようとしている。すなわち彼は、次のように言っている。キリストは、密かに育てられて、エジプトに出稼ぎに行き、何らかの力ある業を体験して、その地からもどり、それらの力ある業によって自分自身を神と称したと。しかし一体どのようにして魔術師は、神は一人ひとりをその行ったすべての業において裁くのであるから、すべてを行わなければならないと確信させる教えを与えようと努めたのか、そして自らの教えの奉仕者となるように扱った自分の弟子たちにそうするように心掛けさせたのか、私にはわからない。はたして弟子たちも、このように力ある業を行うように教えられることで、聞き手の人たちの心をつかんだのか、それとも力ある業を行わなかったのか。実のところ、彼ら(弟子たち)が力ある業を一度も行うことなく、かといってギリシア人たちの問答法と同じように言論の十全な力によることなく、ただ信じることによって、自分たちが出会う人々に新しい教えを教えることに献身したと主張することは、まったくばかげている。実際、彼ら(弟子たち)は、何に頼って、大胆に教えを説き、新しいことを始めたのか。しかし、もしも彼ら(弟子たち)が力ある業を成し遂げたのであれば、魔術師たちが、魔術を禁じる教えのために、甚だしく多くの危険に身をさらしたということに、どんな信憑性があるだろうか[1]



[1] オリゲネスは、イエスの弟子たちも魔術師に見立てられないと言いたいのである。

 

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