44 そして私がこのユダヤ人殿にこれらのことを言ったのは、キリスト者(の私)がエゼキエルとイザヤを信用しないからではなく、我々が共通に信じている事柄によって(ユダヤ人殿の)面目を失わせるためなのである。すなわちこのイエスは、以上のことを語り、またおそらく、彼が見た幻と彼が聞いた声とを弟子たちに伝えたとき、彼らエゼキエルやイザヤよりもはるかに信用に値すると我々は、共通に信じているのである。しかし他の誰かが次のように言うかもしれない。鳩の姿と天からの声とについての事柄を書き記したすべての人が、イエスがそれらのことを話しているの耳にしたわけではない。霊が、モーセに、宇宙開闢から始まって彼の父祖アブラハムに到るまでの歴史を教えたとすれば、その同じ霊は、イエスの洗礼のときに起こった逆説的なことを福音記者たちに教えたのであると。しかし「知恵の言葉[1]」といわれているカリスマで飾られた人なら、諸々の天が開かれたことと鳩の姿についての理由を説明するだろう。そして霊がこの鳩の姿を借りてではなく、別の生き物の姿を借りてイエスに現れなかったことについて説明するだろう。しかしこのことについて説明することは、議論の流れから我々に求められていない。目下の課題は、ケルソスが以上の議論によって、ユダヤ人殿に、彼が信じている事柄よりももっともらしく起こった事柄について不当にも不信を抱かせていることに、異議を唱えることなのである。



[1] 1Co.12,8.

 

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