48 我々がイエスの上で諸々の天が開けたことと彼によって声が聞かれたことについての出来事と、我々がエゼキエルとイザヤ書、あるいは他の預言者の内に見出す同様の出来事とを結びつけて反論しても、このユダヤ人は、エゼキエルとイザヤについて弁明しようとしないかもしれない。その場合には我々は、次のように言うことによって全力で(我々の)この言い分を立証することにしよう。すなわち、多くの人々は、夢の中で、ある時はより神的な何がしかの表象を、またある時には将来の生活に関する出来事を告げる何がしかの表象を――明瞭にであれ、諸々の謎を通してであれ――持つと信じられている。しかもこのことは、摂理を受け入れるすべての人々の下では明白である。これと同様に、夢の中で(魂の)主導能力に刻印を押す力が、まさに覚醒時にも、刻印を受ける人の主導能力[1]に対しても、あるいはその人から話を聞く人々の主導能力に対しても、有益に刻印を押すことができると考えるのは、馬鹿げたことだろうか[2]。また、我々が夢の中で感覚的な聴覚を刺激されて物の音を聞き、両目で物を見るという表象――身体の目を通してでもなく、聴覚を刺激されてでもなく、ただ主導能力がそれらの表象を受け取ったということで――を受け取る[3]。それと同じように、預言者たちが何らかの不思議なことを見たり、主の言葉を聞いたり、諸々の天が開かれるのを見たと書き記されたとき、それらのことが預言者たちにも起こったとしても、まったく馬鹿げたことではない。なぜなら私は、感覚的な天が開かれ、その開かれた物質的現実が二つに裂けた結果、エゼキエルがこのようなことを書き記したとは考えていないからである。したがっておそらく救い主についても、福音書を注意深く聞く読者は、似たようなことを認めるべきだろう――たとえ、単純な人たちにとっては、このようなことは躓きであるとしても。彼らは、そのはなはだしい単純さによって、宇宙を揺り動かし、天全体という統一の取れた巨大な物体を切り裂くのである。

しかしこのようなことをもっと深く検討する人は、次のように言うだろう。すなわち、聖書が名づけているところによれば、ある種の類的な神的感覚が存在していて、まさにソロモンの言葉――「あなたは神的な感覚を見出すだろう[4]」――によれば、至福の域に達した者がすでにこの感覚を得ている。またこの(類的な)感覚の種が幾つか存在している。すなわち物体よりも優れた事柄――この事柄の内にケルビムやセラフィムが含まれる――を見ることのできる視覚。空気の中に実体を持たない声を把握する聴覚、天から降ってきて世に命を与える生けるパン[5]を味わう味覚、同様に何らかのものの臭いを捉える嗅覚。これによってパウロは、「神に捧げられたキリストの芳香[6]」であると言われているのである。さらにヨハネが自分の両手で「命のみ言葉についての[7]」何がしかを探ったと言っている触角が存在するのである。至福の域に達した預言者たちは、この神的な感覚を見出して、神的に見るのであり、神的に聞くのである。また同様に彼らは、いわば感覚的ではない感覚によって味わい、臭いを嗅ぐのであり、信仰をもってみ言葉に触れるのである。この結果、み言葉から彼らに向かってあるものが流れ出て、彼らを癒しに来るのである[8]。こうして彼らは、見たと書き記している事柄を見たのであり、聞いたと言っている事柄を聞いたのであり、彼らが書き記しているように、彼らに与えられた書物の「冒頭」を食べたとき[9]、似たようなことを経験したのである。同様にイサクは、息子のより神的な「衣服の香りを嗅ぎ」、霊的な祝福を与えた後で、さらに次のように言っている。「見よ、我が子の香りは、主が祝福された豊かな畑の香りのようだ[10]」と。これらの事実と同じように、また感覚的というよりも可知的に、イエスは、思い皮膚病を患う人に触れて[11]、私が思うに二重に彼を清めた。すなわちイエスは、多くの人が理解しているように感覚的な接触によって、感覚的な重い皮膚病から彼を救い出したばかりでなく、彼自身の本当に神的な接触によって別の思い皮膚病からも彼を解放しているのです。したがってこのような意味で「ヨハネは証をして、こう言っているのである。『私は、霊が鳩のように天から降ってくるのを観た。そしてそれは、この方の上に留まった。私もこの方を知らなかった。しかし水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、私にこう言われた。《霊がある人のもとに下ってきて、その人の上に留まるのをお前は見るだろう。その人こそ、聖霊において洗礼を授ける方である》と。私も見た。そして証をして、この人こそ神の子であると証したのである』[12]」。まさにこのイエスに対して、諸々の天は開かれました。そしてその時、ヨハネだけが諸々の天が開かれるのを見たと書き記されている。しかし救い主は、このように諸々の天が開かれることが弟子たちにも起こり、そして弟子たちもこれを見ることを預言して次のように言っている。「わたしは、よくよくあなた方に言っておく。あなた方は天が開かれ、神のみ使いたちが人のこの上を昇ったり降りたりするのを見るであろう[13]」と。同様にパウロも、天が開かれるのを見た後で、第三の天に連れ去られた。なぜなら彼もイエスの弟子だったからである。しかしなぜパウロが、「体においてなのか、体の外においてなのかわたしは知らない。それは神が知っている[14]」と言っているのか説明することは、目下の課題ではない。

さらにケルソスが次のように考えていることも、今の議論に付け加えたい。すなわちイエスご自身が、ヨルダン川の辺における諸々の天の開けとご自身への鳩の姿を借りた聖霊の下降とに関する事柄を述べていると考えていることである。しかし実際には聖書は、イエス自身がこのことを見たことを明示していない。この高貴極まりない男は、ヨルダン川の辺でヨハネによって見聞きされたことを弟子たちに言うことが、山上での幻において弟子たちに次のようにお話しになった方の意に添うものではないことに気づいていないのである。イエスは、次のように言っているのである。「あなた方は、人の子が死者の内から復活するまで、いま見たことを誰にも言ってはならない[15]」と。しかしこのことは、自分自身のことを語ることをあらゆる所で避けているイエスの習慣によると述べることができる。事実イエスは、次のように言っている。「もしもわたしが私自身について語るとすれば、わたしの証は真実ではない[16]」。そしてイエスは、自分自身について語ることを避け、言葉によるよりも諸々の業によってご自分がキリストであることを明らかにしようと望まれていたので、ユダヤ人たちは、彼に対してこう言っているのである。「もしもあなたがキリストなら、我々に率直に言ってほしい[17]」と。また、鳩の姿における聖霊に関する事柄について、ケルソスの著作で「あなたが話すか、あなたと共に罰せられた人たちの誰か一人を引き合い出ださなければ」と言っているのはユダヤ人であるから、ケルソスに対して次のことを示さなければならない。すなわちこの発言をユダヤ人の登場人物に課すことは、ユタや人に相応しいことではないと。なぜならユダヤ人たちは、ヨハネをイエスに結びつけたり、ヨハネの処罰をイエスの処罰に結びつけたりしないからである。したがってまさにこの点においても、すべてを知っていると威張り散らすケルソスは、どのような言葉をイエスに向かうユダヤ人に与えるべきか知らない者として、論駁されるのである。



[1] 既出(I, 4 et 42)。主導能力は、ストア派の用語で、魂の理性的部分を指し、おおむねプラトン主義の「ヌース」に相当する。ラテン語では、principale cordis(Rufinus), mens(Hieronymus)と訳されている。

[2] 古代の人々は、睡眠時の表象と覚醒時の表象を本質的に区別していなかった。両者は、何らかの外的な作用によって引き起こされるものと考えられたのである。それ故、古代バビロニアにおいても、エジプトにおいても、ローマにおいても、さらにはキリスト教時代に入っても、神意を探るための夢占いが行われた。

[3] Cf.Plutarch, Mor.588 D.

[4] Pr.2,5.七十人訳では、evpignwsin、ヴルガタ訳では、scientiam Deiであるが、これをai;sqhsin qei,anとする読みは、オリゲネスの各著作を通じて一貫している。Cf.CC.VII,34; DePrinc.I,1,9; IV,4,10; Com.Jn.10,40(24); 20,43(33); Mt.Ser.63, 66 etc. Et cf. Clem. Al., Strom.I,4,27,2.

[5] Jn.6,33.

[6] 2Co.2,15.

[7] 1Jn.1,1.

[8] オリゲネスにとってこのような神的感覚(霊的感覚)の聖書的根拠は、Ps.19,9; Ep.1,18(); Mt.13,9; 2Co.12,2(); Ps.33,9; Jn.6,32(味覚); 2Co.12,15(嗅覚); 1Jn.1,1(触覚)である。これらについて述べられているオリゲネスの著作の個所は、DePrinc.I,1,7 et 9; II,4,3; II,9,4; Hom.Lv.21,7; Hom.Ez.11,1; Hom.Ct.I et II; Ser.Mt.63-64; Frag.Lc. 53,57; Frag.Jn.10,40; 13,24; CC.VII,34.オリゲネスが身体的感覚に霊的感覚を並置させる根拠は、パウロの「内なる人間」と「外なる人間」との対置(Rm.7,22; 2Co.4,16; Col.3,9-10)、および創世記の二つの創造像の物語(Gn.1,26; 2,7)にある。

[9] Ez.3,1.

[10] Gn.27,27.

[11] Mt.8,3.

[12] Jn.1,32-34.

[13] Jn.1,51.

[14] 2Co.12,2.

[15] Mt.17,9.

[16] Jn.5,31.

[17] Jn.10,24.

 

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