49 次に私にはどういうわけだがわからないが、イエスの論証に関する最も枢要な事柄、すなわち彼が、ユダヤ人の間の預言者たちやモーセによって、あるいはモーセの後の人たちやモーセよりも前の人たちによって預言されていたということが意図的に見落とされているのである。私が思うに、ケルソスは、(我々の)議論に応戦することができないからだろう。なぜならユダヤ人たちも多くの異端者たちも、メシア[1]が預言されていることを望んでいないわけがないからである。しかしおそらくケルソスは、イエスに関する諸々の預言を知らなかったのだろう。実際、もしも彼が、キリスト者たちによって言われている事柄を、すなわち多くの預言者たちが救い主の到来について預言をしていたということを理解していたら、むしろサマリヤ人やサドカイ派が言った方が相応しいようなことをユダヤ人の登場人物に帰すことはなかっただろう。また登場人物に仕立て上げられているユダヤ人が、「しかし私の(一人の)預言者は、神の子が、正しい人の裁き手、不正な人の懲らしめ主として到来すると、かつてエルサレムで言っていた」とは主張しなかっただろう。なぜならたった一人の預言者が、メシアに関する事柄を預言していたわけではないからである[2]。またたとえ、モーセの書物しか受け入れていないサマリヤ人とサドカイ派が、メシアはそれらの書の中で預言されていると主張しても、その預言は、モーセの時代にはまだ名前の挙がっていないエルサレムにおいて語られたものではなかった。したがってみ言葉を非難するすべての人は、事実ばかりでなく、聖書の単なる文字にはなはだしく無知であればよいのである。そして彼らがキリスト教を非難しても、彼らの言葉が、「一時的な」信仰しか持たない不安定な人々を[3]、信仰からとは言わず、わずかな信仰から逸らすことができなければよいのである。しかしユダヤ人は、ある預言者が神の子は到来すると言ったということを告白しないだろう。実際、彼らが言っていることは、神のメシアが到来するだろうということである。そして彼らはしばしば、神の子について我々に単刀直入に質問して、そのような神の子は存在しないし、預言もされていないと言うだろう。しかし我々は、神の子が預言されていないとは言わない。かえってこのことを告白しないユダヤ人の登場人物に、「私の預言者が、神の子は到来するだろうと、かつてエルサレムで言った」という言葉を(ケルソスが)帰したのは適切なことではないと言いたい。



[1] 原文はcristo,jだが、メシアと訳しておく。どちらも本来、「油注がれた者」という意味を表す。

[2] Cf.CC.II,4,79.

[3] Lc.8,13; Mc.4,17.

 

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