また彼は、偶像崇拝に関する事柄をみ言葉に属する人たちに固有のものであると決めつけて、次のように主張する。彼は言う。「彼らは、手で作られた神々を認めない。なぜなら卑劣この上なく品行において劣悪な職人たちの手によるもの、しかもしばしば不正な人々によって作られたものを神々であるとするのは理にかなっていないからである」と。続けて彼は、このことがそれ(すなわちキリスト教)によって最初に発見されたものではなく、(人々に)共通のものであることを示そうとして、ヘラクレイトスの次の言葉を引用する。「魂のないものを神々と見なして、それらに近づく者は、家とお喋りを人のようである[1]」。さて、これについても次のように言わなければならない。他の徳目と同じように、諸観念は人々の中に(種子として)蒔かれている。この諸観念によってヘラクレイトスも、その他のギリシア人あるいは夷狄の人も、このような考えを主張することを思いついたのである。実際、ケルソスは、「ペルシア人もこのことを考えている」とし、そのことを物語るヘロドトスを傍証として上げている[2]。しかし私としては、キティエウスのゼノンが『国家』の中で次のように言っているのを付け加えたい。彼は言う。「神殿を建てる必要はまったくないだろう。なぜなら大工と職人の業を、神聖で大きな価値をもち聖なるものと見なす必要はまったくないからである[3]」。したがってこの教えについても、実践すべき事柄が神の文字によって人々の「心の中に」書き込まれているのは、明らかである[4]



[1] Héraclite, frag. B5 (DK,I,151).

[2] Hérodote, I, 131.

[3] Cf.SVF, I, 264-267; Cément, Strom.V,76.

[4] オリゲネスは本節で、ケルソスの論難を受けて、偶像崇拝の忌避が万民に共通の観念であることをキリスト教は承知していると言っているのである。ただしその忌避は、究極的にはキリスト教の神に由来している。

 

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