53 しかしイエスに関して私たちには明瞭であると思われる第二の預言が必要であるなら、我々は、イエスの到来のはるか以前にモーセによって書かれた預言を引用することにしよう。モーセが言うには、ヤコブはこの世を離れるとき、息子たちの一人ひとりに預言をし、しかし彼らの中でも特にユダに次のように言っている。「ユダから支配者が絶えることなく、指導者が彼の腿の付け根から絶えることがない。彼のための取って置かれたものが来るまでは[1]」と。ところでこの預言を読む人は――この預言は、モーセよりもはるかに前のものであることが真相なのであるが、不信仰な人たちの中には、モーセによって語られたものであると推測している人もいよう――ユダヤ人たちの間には十二の部族があるのに、どうしてモーセは、ユダヤ人を支配する王たちは、ユダの部族から生まれ、その民を支配すると預言することができたのかと驚くだろう。またそのようなわけで、この民の全体は、支配的な部族の名を借りて、ユダヤ人と呼ばれているのである。この預言を慎重に読む人がその預言に第二に驚かされるのは、どういうわけでモーセは、ユダの部族からこの民を支配し指導する人たちが出ると言ってから、その支配の終わりを設定したのかということである。彼はこう言っている。「ユダ出身の」支配者は絶えることがなく、「彼の腿の付け根出身の指導者も絶えることがない、彼のために取って置かれたものが来るまでは。そして彼は、諸国の民の希望となる」と。たしかに「この取って置かれたもの」に相当する神のキリスト、神の諸々の約束の支配者は来た[2]。そして明らかにこの方だけが、彼に先立つすべての人々に勝って、また敢えて言えば、彼の後に続く人々に勝って、「諸国の民の希望」となったのである。というのは、諸国のすべての民から来た者が、キリストを通して神を信じ、しかもイザヤによって言われた言葉に従って諸国の民は彼の名に希望を置いたからである。イザヤは次のように言っている。「諸国の民は彼の名に希望を置くだろう」と。さらに彼は、「各自は各自の罪の縄目に縛れている[3]」という言葉の通り「諸々の束縛の中にある人々」に向かって、「あなた方は(そこから)出てきなさい」と言い、無知の中にある人々に向かっては、「光の内に来なさい」と言っている。そしてこれらのことは次のように預言されている。「そして私は、お前を諸国の民の契約とし、荒れ野の嗣業地を継がせる。そしてあなたは、束縛の内にある人々には出てきなさいと言い、闇の内にある人々には現れなさいと言うようになる」。そしてイエスの到来によって、より純朴に信じた全居住地の至る所にいる人々を通して次の言葉が成就されたのを見ることができる。すなわち「彼らは、あらゆる道で養われる。そしてすべての道に、彼らの牧草がある[4]」と。



[1] Gn.49,10.

[2] Cf.Justin, Dial.120,3-5.

[3] Pr.5,22.

[4] Is.49,8-9.

 

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