69 次に(ケルソスはキリストの)教えとある学派の教説とを混ぜ合わせて、この教説をキリスト者たちに共通のものと見なして、神に属するすべての人たちに非難を浴びせ、次のように言っている。神の体は、あなたの体のようなものではないかもしれない。しかし我々はこれに対して次のように言いたい。すなわち彼はこの地上の生に至ったとき、女に由来する人間の体、しかも人間の死を受け容れ得る体を受け取ったのだと。それゆえ何よりも彼は、他のすべての人と同じようにあらゆる点で人間的な体に試みを受けたにもかかわらず、罪を持った人々ともはや同じではなく、まったく罪を持たなかったのである[1]。なぜなら「彼が罪を犯さず、その口には欺きが見出されなかった[2]」のは我々に明らかだからである。そして神は、「罪を知らなかった」彼を、罪を犯したすべての人のための清めの供え物として渡したのである[3]。次にケルソスは、「イエスよ、神の体は、あなたが産み出されたのと同じように産み出されたものではないかもしれない」と言っている[4]。とはいえ彼は、もしもイエスが聖書の書かれているような仕方で生まれたとすれば、彼の体はある意味で、他の多くの体よりもより神的なものであり得ること、そして或る意味で神の体であり得ることを憶測していた。しかしケルソスは、聖霊による彼の受胎について書き記されている事柄を信用せず、乙女を誘惑したパンテラなる人物がイエスを生んだと信じているのである。そういうわけでケルソスは、神の体は、あなたが産み出されたように産み出されたものではないかもしれないと言ったのである。しかしこれらに関しては、我々は、既に前のところで詳細に語った。



[1] Cf.He.4,15.

[2] Is.53,9.

[3] 2Co.5,21.

[4] Cf.Justinus, Dial.68,1.

 

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