70 また彼は、神の体はそのようなものを食べないと言っている[1]。それはまるで、イエスが食物を食べ、しかもどのようなものを食べていたかを聖書から明らかにすることができるかのような言い草である。しかしそうなら、彼は、イエスが弟子たちとともに過越の食事をしたと言うべきである。イエスは、「私は、あなた方とともにこの過越の食事を食べたいと切に望んでいる[2]」と言ったばかりでなく、(実際に)食べたのである。またケルソスは、イエスがまさに喉の渇きを覚えてヤコブの泉の傍らで(水を)飲んだと言うべきである[3]。どうしてこのことが、我々がイエスの体について述べたことと矛盾するのか。しかし明らかに彼は、復活の後、魚を食べたのである[4]。実際、我々の考えでは、彼は、体をもったのである。なぜなら彼は、「女から[5]」生まれたからである。しかし(ケルソスは)神の体は、そのような声もそのような説得法も使わないと言う。これも無意味ではなはだしく軽蔑すべき発言である。彼に対してこう言うことにしよう。すなわち、ギリシア人たちの間で神であるとして信じられているピュティアと(ミレトスの)ディデュマのアポロは、そのような声、つまり、ピュティアの女祭司の声やミレトスに生まれた女預言者の声を使う。それでいてピュティアのアポロやディデュマのアポロ、あるいは他のどこかの場所に鎮座するギリシアの同様の神は、ギリシア人たちの間で神でないとして非難されることはないのである。であれば、神が、力強い布告によって聞く者たちの間に曰く言いようのない確信をもたらす声を使うことは、はるかによいことである。


[1] Cf.CC.II,37;VII,13; Justinus, Dial.88,2.

[2] Lc.22,15.

[3] Jn.4,6-7.

[4] Jn.21,13.

[5] Ga.4,4.

 

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