続いて彼は、(キリスト教の)教えを秘教と言っているので、この点においても彼を反駁しなければならない。なぜならほとんど全世界の人々が、哲学者たちにお気に入りの論題以上に、キリスト者たちの教えを知っているからである。乙女からのイエスの誕生[1]、磔刑、多くの人のもとで信じられている彼の復活、罪人たちをそれぞれに相応しく罰し、義人たちを賞与に値するものとする神の裁きの告知を、一体だれが知らないだろうか。そればかりか、復活に関する神秘は、不信仰な人たちに理解されず、嘲笑されながら言い触らされている始末である。したがってこれらのことについて、(キリスト教の)教えは秘教であると言うのは、まったく馬鹿げている。なるほど公教的なものと並んで、多くの人々には届かない(秘教的な)ものが存在するが、それはキリスト者たちの教えに限ったことではない。それは、哲学者たちの学説にも存在するのである。彼らのもとでは、ある説は公教的であり、またある説は秘教的になっている。たとえばピタゴラスの説を聞く者たちは、「彼は言った[2]」という句のついた説を聞く。しかし他の人たちは、門外漢でまだ清められていない人たちの耳に届くには相応しくない事柄を密かに学ぶのである。しかもギリシアでも夷狄の地でも、そのあらゆるところに存在するすべての神秘は、秘教であるということで、非難を受けることはない。それゆえケルソスがキリスト教の秘教を非難するのは、根拠のないことであり、彼はそれを正確に理解していないのである。



[1] h` evk parqe,nou ge,nesij Vihsou/:文字通りには、「乙女からのイエスの生成」。オリゲネスは、ここで厳密な意味での「誕生」を表すge,nnhsijを使わない。彼によれば、キリストは、唯一の位格を保持しながら、その神性においておん父から永遠に「生まれ」、その人性においてマリアのもとで「造られた」のである。

[2] Auvto.j e;fa:これは、ピタゴラス派の慣用句であったらしい。

 

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