彼は、死に至るまでキリスト教を証する人々を何らかの仕方で支持しているように見える。彼は言う。「そして私は、善き教えを受け入れた者が、その教えのゆえに人々のもとで危険を受けることになろうとも、その教えを棄てるべきだとか、棄てた振りをすべきだとか、あるいは否定すべきだとは言わない」と。彼はたしかに、キリスト教を信じる人たちが信じていないように装ったり、それを否定した人たちを非難して、教えを信奉する人は教えを棄てたと装ったり、その教えを否定してはならないと言っている。だが、ケルソスは自分自身に反することを言っており、その点で彼を反駁しなければならない。実に彼は、(彼の)他の書物からは、エピクロス派であることがわかっている。しかしここでは、エピクロスの説を口にしなければ、(キリスト教の)み言葉をよりもっともらしく非難できると思えたので、彼は、「人間には、地に属する部分よりも優った何かしら神と同類のものが存在する」と主張し、次のように言っているのである。「この部分」すなわち魂「がよい状態である人々は、この同類のもの――彼はこれを神と言っている――をあらゆる点で熱望し、それについて何らかの話を聞き、追憶したいと望んでいる」と。ここに彼の魂のいい加減な偽装がある。なぜなら彼は、善き教えを信奉する人は、たとえその教えのゆえに人々のもとで危険を受けることになろうとも、その教えを棄てるべきではない、棄てた振りをするべきではない、あるいは否定してはならないと言うことによって、みずからまったく反対の事態に陥っているからである。たしかに彼は、自分がエピクロス派であることを白状すれば、何らかの仕方で摂理を受け入れ、神を諸々の存在者に優るものとする人々を批判しても、信用を得られないだろうということがわかっていたのだ[1]。ところで二人のケルソスがエピクロス派になっていたと、私は聞いている。一人はネロの時代のケルソスであるが、目下話題になっているケルソスは、ハドリアヌスの時代以降のケルソスである。



[1] デモクリトスの原子論に基づくエピクロスの哲学は、非常に大雑把に言えば、基本的に無神論の体系である。

 

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