続いて彼は、「理性と理性の導きとに従って教えを受け入れる」ことを勧める。「なぜなら、そのようにしないで何らかの事柄を承認する人々は、確実に誤りに陥るからだ」と。そして彼は、このような人々を、「(キュベレーの)托鉢神官や占い師たちの話、ミトラやサバディオスの信奉者たちの話を理性を用いずに信じる人々、あるいは、ヘカテーや他の一柱の鬼神ないしはそれ以上の鬼神の出現などの人々が過去に遭遇したものなら何でも、理性を用いずに信じる人々」になぞらえている[1]。「実に、これらの人々の内で卑劣な人たちが、だまされやすい人たちの無知につけ込んで、彼らを自分たちの思うままに導いているように、キリスト者の間でもそのようなことが行われている」と彼は言っている。また彼は、ある人たちは、自分たちの信じるものについて説明を与えたり、それについて説明を受けたりすることを望まず、「あなたは吟味してはならない。信じよ」とか、「あなたの信仰があなたを救う」という言葉を使うことを望んでいると言う。そして彼は、彼らが「この世の知恵は悪しく、愚かさは善である」と言っていると主張する。これに対してこう言わなければならない。もしもすべての人が日常の雑事を放り出して哲学をする時間を持つことができれば、この哲学以外の方法を追求すべきではないだろう。実際、(そうすることができれば)、キリスト教には、信仰内容の検討や、諸々の預言に含まれる謎や福音に述べられた数々のたとえ話、その他無数の象徴的な出来事や掟の解釈が少なからず行われると言っても過言ではないだろう。しかしもしもそのことがかなわぬことであれば、生活の必要や人間の弱さのゆえに極めてわずかの人しか理性的思惟に熱中できないのであるから、人々を助けるのに有益な方法として、キリストから諸国の民に与えられた方法以外に、一体どのような方法があるだろうか。

 さらに私は、かつて翻弄されていた罪のとてつもない激流を離れて、信仰を持った多くの人たちについて尋ねたい。彼らにとってどちらがよいだろうか。すなわち、理性を用いずに信仰を持った彼らが、何らかの仕方で品行を正し、罪人たちと罰と善行を積んだ者たちの報いについての信仰によって救いを得るのと、彼らがみ言葉の吟味に専念するまでは、単純な信仰による彼らの回心を認めないとするのとでは。確かに(後者の場合であれば)、極わずかの人々を除いて、およそすべての人々は、単純に信仰したことから得るものを手にすることができず、かえって極悪の生活を続けるだろう。したがって、神の助けがなければ、み言葉の人類愛は人々の生活に留まらないということの別の証拠があるとすれば、まさにこのことも、その証拠に数え入れねばならないだろう。実際、信心深い人なら、多くの病人を健康な状態に導く身体の医者が、神の助けなしに諸々の町やいろいろな民の下に留まるとは考えないだろう。神の助けがなければ、よいことは人々の間に何も起こらないのである。もしも多くの人の身体を治したり、よい状態に導いたりする医者が神の助けなしに治療することができないとすれば、ましていわんや、多くに人の魂を癒し、回心させ、遷善し、万物に臨む神により頼ませ、すべての行いをかの方の喜ばれる方向に導き、ほんのささいな言葉であれ、行いであれ、想念であれ、神が喜ばない一切のことを避けるように教える人は、神の助けがなければ、そうなしえないのである。



[1] ミトラはペルシアの神、サバディオスはフリギアの神、ヘカテーはギリシアの神である。

 

次へ