10 しかし、イエスは約束し、しかも、行わなかったのは何かを、ケルソスは示し、証明すべきである。しかし彼は、できないだろう――取り分けその理由は、諸々の伝聞からであれ、諸々の福音的読書からであれ、諸々のユダヤ的説明からであれ、彼は、ユダヤ人に対して、あるいは、我々に対して反対して述べる諸々の事柄を引き出せると思っているからである。しかし、(ケルソスの許の)ユダヤ人は、再び、「私たちが彼を非難し、断罪し、懲らしめられるに値するとした」と言っているのであるから、彼らは、示すべきである――彼に対して諸々の偽証を準備することを求める人たちが、どのようにして彼を非難したかを示すべきである。もしかすると、イエスに対する大きな非難は、非難者たちが次のように言った非難だったろう:「彼は言った:私は神の神殿を破壊し、三つの日を通して再建することができる[1]」と。なぜなら彼は、「ご自分の身体の神殿について言っていた[2]」が、かの者たちは、(その言葉を)言っている方の意図に即して聞くすべを知らなかったため、彼の話は――ロゴスと知恵と真理としての神の真の意味での神殿を尊ぶべきであったのに――それ以上にユダヤ人たちの許で尊ばれた石的な神殿についてのものだったと考えていたからである。また人は、どのようにしてイエスが、もっとも恥ずべき仕方で隠れ、逃亡したかを言うべきである。実に人は、恥辱に値することを提示すべきである。

 しかし (ケルソスの許のユダヤ人は)、「彼が捕らえられた」と言ってるのであるから、私は次のように言いたい:「捕らえられることが不本意であるとしても、イエスは捕らえられなかった」と。実際、彼は、自分自身が必要な時季に人間たちの諸々の手の中にいることを妨げなかった――「神の子羊」として、「世の罪を取り除くために[3]」。「実に彼は、ご自分の許に来るすべての事柄を知って、出てきてた。そして彼は、彼らに言う:『あなた方は誰を捜しているのか』。彼らは答えた:『ナザレの人イエスを(探している)』。彼は彼らに答える:『私はある』。彼を渡したユダも、彼らとともに立っていた。彼が『私はある』と言ったとき、彼らは、後ろの方に退き、地面に倒れた。そこで、彼は再び訪ねた:『あなた方は誰を捜しているのか』。彼らは再び言った:『ナザレの人イエス(を探している)』。イエスは彼らに答えた:『≪私はある≫と、私はあなた方に言った。だらか、あなた方が私を捜しているなら、あなた方は、この人たちを去らせてあげなさい』[4]」と。そればかりか、彼を助けることを望み、「大祭司の従者を打ち、「彼の耳」を取り去った人に言った:「あなたは、あなたの剣を、その(元の)場所の中に返しなさい。なぜなら、剣を取る者たちは皆、滅びるだろう。それとも、いま、私が私の父に助けを求めることができないと、あなたに思われるのか。彼は私に、み使いたちの十二の軍団よりも多くの軍団を、ここに送るだろう。(しかし)それでは、『(事態は)そのようにならねばならなかった』という諸々の()文書が成就されるのか[5]」と。それらの事柄も、諸々の福音を書いた者たちの諸々の偽造物であると、もしも人が思うなら、どうして、彼(イエス)とキリスト者たちとに対して敵意と憎しみから語る人たちの諸々の事柄がむしろ諸々の偽造物でないのか。またどうして、イエスの諸々の言葉の故に一切を堪え忍んだことの中でイエスに対する態度の真正さを証明した人たちの諸々の事柄は真理でないのか。実際、イエスの弟子たちは、教師に関して存在しない諸々の事柄を偽造する態度をもって、それほど大きな忍耐と死に至るまでの抵抗を取るだろうか。・・・。そして、神の子であると彼らによって信じられた方のために、彼らがそれ程の、それほど多くの諸々の事柄を堪えたという事実から、彼らが書き記された諸々の事柄について信用していたことは、良識ある人たちにとってまたっく明瞭である。



[1] Mt.26,61.

[2] Jn.2,20.

[3] Jn.1,29.

[4] Jn.18,4-8.

[5] Mt.26,52-54.

 

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