13 それらの事柄の後で、ケルソスの許のユダヤ人は次のように言っている:すなわち、イエスに関して起こった諸々の事柄について言うべき多くの事柄――しかも真実で、イエスの弟子たちによって書かれた諸々の事柄とは似ていない諸々の事柄――を持っているが、それらを意図的に脇に置く」と。一体、ケルソスの許のユダヤ人が脇に置くところの真実で、諸々の福音の中に書かれたようなものでない諸々の事柄とは何なのか。それとも彼は、外見的な雄弁的才能を用いているが、言うべきことを(何か)持っている振りをしており、福音の外に述べるべきもの――真実なことととして、また、イエスと彼の教えを明白に避難するものとして、聞き手に衝撃を与えることができるもの――を持っていたのか。

また彼は、弟子たちを、次のことをでっち上げたとして避難する:「あの人は、自分に起こったすべての事柄を予め知っており、予め語った」と。実にそのことが真実であることを――たとえケルソスが望まなくても――我々は、救い主によって預言的に言われた他の多くの諸々の事柄から示すことにしよう。それらの事柄の中で彼は、キリスト者たちに、しかも後の世代に人たちに起こった諸々の事柄を預言していた。いったい誰が、「あなた方は、私の故に、指導者たちと王たちのところに連れて行かれるだろう――彼らと異邦人たちとに対する証のために[1]」と預言されていることに驚かないだろうか:その他、彼の弟子たちが迫害されるだろうことについて彼が預言したことに(誰が驚かないだろうか)。いったい、人間たちの中で起こった諸々の事柄のどのような教説の故に、他の人たちまでも懲らしめられるのか――イエスを非難する人たちの誰かが、「(私は、彼の)諸々の教説の諸々の不敬虔や諸々の虚偽が非難されるのを見て、彼が自分について(そのことを)予言するするが故に、まさにそのことを誇張することにした」と言えるほどに。実際、もしも諸々の教説の故に、「指導者たちと王たちのところに」ある人たちが連れて行かれる必要がったなら、他の誰々を連れて行く必要があったのか――摂理を全面的に否定するエピクロス派の人たち、そればかりか、諸々の祈りと、たとえば神的なもの諸々に生け贄は何の役にも立たないと主張する逍遙学派に属する人たち意以外に。

しかし人は、次のように言うだろう:「サマリア人たちも、自分たちの軽震の故に迫害される」と。彼に対して、我々は次のように言うだろう:「人殺したちは、割礼の故に、確立されている諸々の律法と、ユダヤ人たちにだけ容認されている諸々の事柄に違反して(包皮)を切断したため、取り除かれる」と。また、裁判官が次のことを尋ねられるのを聞くことはできない:すなわち、人殺しが承認された特定の信仰に即して生きるために奮闘して、(態度を)変えれば放免され、(不信仰の)内に留まれば死に連れ去られるかどうかを(尋ねられるのを)。むしろ、割礼を受けた者の除去のためには、割礼が証明されるだけで十分である。それに対し、キリスト教徒だけは、彼らの救い主によって言われた諸々の事柄――彼は「あなた方は、私の故に、指導者たちと王たちのところに連れて行かれるだろう[2]」と言う――に従って、キリスト教を否定することによって、最後の息が尽きるまで、公共的な諸々の慣習に従って生け贄を捧げ、(その生け贄を)誓うことによって(裁判官たちの)家族の一員となり、安全に生きることが、裁判官たちによってゆるされている。

またあなたは、次の言葉が多くの権威と共に言われていないかどうかをご覧下さい:「もしも人が、私の中で人間たちの前で告白するなら、私もその人の中で、諸々の天の中にいる私の父の前で告白するだろう。そして、人間たちの前で私を拒むすべての人は[3]」云々と。そして、どうかあなたは、それらのことを言うイエスの許に言葉によって登って下さい。そして、あなたは、預言された諸々の事柄がまだ起こっていないことをご覧下さい――もしもあなたが、彼を信用せず、「彼の言うそれらのことは戯言であり、無駄に語っている」と言わないなら;あるいは、彼の諸々の言葉に同意することについて逡巡して、「それらの事柄が成就され、イエスの諸々の言葉――指導者たちと王たちがイエスを告白する者たちを滅ぼすことを考えているという諸々の言葉――の教えが確立されたなら、そのとき我々は、彼が、その言葉を人間たちの種族に播種するための大きな権能を神から得、勝つことを確信する者としてそれらのことを述べている」と言わないなら。しかし、いったい誰が驚かされないだろうか――その時に教え、次のように言うあの方の許に言葉によって登ることによって:「この福音は、彼らと異邦人たちに対する証のために宇宙全体に宣べ伝えられるだろう[4](と、あの方は言う);また、あの方によって言われた諸々の言葉通り、イエス・キリストの福音が、「天の下の一切の被造物の中で[5]」、「ギリシア人たちと夷狄たちに、賢者たちと愚者たちに[6]」宣べ伝えられたことを観想することによって。なぜなら、力とともに語るみ言葉は、人間たちの一切の本性に勝ったからである。そして、イエスの教えを受け入れることから逃れた人間たちの何らかの種族を見ることは不可能である。

しかし、ケルソスの許のユダヤ人は、イエスについて、彼が自分に起こるすべての事柄を予知していたことを疑っているのであるから、エルサレムがまだ存立し、一切のユダヤ的な礼拝がその中で行われているときに、どのような仕方でイエスは、ローマ人たちによってエルサレムに起こった諸々の事柄を予知していたかを考えてみるべきである。確かに、イエス自身の近親者たちと聞き手たちは、文書なしに、諸々の福音の教えを受け渡し、イエスに関する文字の中の諸々の記憶なしに弟子たちを後に残したと、(人々は)言わないだろう。実にそれらの(福音の)中に、次のことが書かれている:「エルサレムが諸々の軍営によって囲まれているのをあなた方が見るとき、その時あなた方は、その(エルサレムの)荒廃が近づいたことを知りなさい[7]」。そしてその時、エルサレムの周囲を取り囲み、包囲し、封鎖する諸々の軍営は決してなかった。実にそのことは、まだネロが(王として)統治していたとき始まり、ウェスパシアヌスの統治まで及んだ。彼の息子チトゥスがエルサレムを破壊した。それは、ヨセポスが書いているところによると、キリストと呼ばれるイエスの兄弟・義人ヤコブの故にである。しかしそれは、真理が示すように、神のキリスト・イエスの故にである。



[1] Mt.10,18.

[2] Mt.10,18.

[3] Mt.10,32-33.

[4] Mt.24,14.

[5] Col.1,23.

[6] Rm.1,14.

[7] Lc.21,20.

 

次へ