15 しかし、ケルソスは、「イエスの弟子たちは、明白な事柄の上に何も置くことができず[1]、次のこと、すなわち、彼はすべての事柄を予知していたことを考え出した」と言う――(それを)書いた人たちの誠実さに注目せず、あるいは、注目しようとしないで。ところが彼らは、次のことを認めている:すなわち、イエスは弟子たちに、「この夜の中であなた方はみな、躓くだろう[2]」と預言したこと、そして、彼らが(本当に)躓いたので彼が本当のことを言っていたこと、そして、ペトロにも「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を否定するだろう[3]」と預言していたこと、そして、ペトロは三度、否定したことを認めている。実際、もしも彼ら(聖書記者たち)が誠実でなく、むしろ、ケルソスが考えるように、諸々の作り話を書き記すとすれば、ペトロが裏切ったとか、イエスの弟子たちが躓いたとは書かなかっただろう。実際、それらの事柄が生じたとしても、いったい誰がその通りに起こったとして、み言葉を非難するだろうか。そもそもそれらの事柄は、キリスト教の告白のために死を軽視することを諸々の福音の読者たちに教えることを望む人たちによって、言外に付されるのが当然だった。ところが今、彼らは、み言葉が力によって人間たちを圧倒するだろうということを見て、そのような諸々の事柄――それらは、どのようにしてか私は知らないが、読者たちを害することなく、拒絶の口実を与えることもなかろうとして――を(諸々の福音の中に)置いた。



[1] 「何も置くことができず」とは、「まったく覆い隠せない」ということ。

[2] Mt.26,31.

[3] Mt.26,34.

 

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