16 また彼は、まったく浅はかに、次のように言う:「弟子たちは、イエスに反する諸々の事柄の赦免のために、彼に関してそのような諸々の事柄を書いた。それはあなたかも人が、或る人を義人であると言いつつ、彼が不義を働いていることを示しているようなものだ、そして、敬虔であると言いつつ、殺害者であることを示しているようなものだ、そして、不死であると言いつつ、死んでいることを示しているようなものだ」と、彼は言う。そして彼は、「彼がまさにそれらの事柄を預言した」ことを、それらに付け加えている。実に、彼の判例は(今の話題に)直ちに不相応である――なぜなら、いかに生きるべきかに関して人間たちの内に存在する来るべき目標を身に帯びた方が、敬神のためにいかに死ぬべきかということの模範を示したことはまったく馬鹿げたことではないからである――、これ以前の議論の中で我々が示したように、人間たちのために彼が死んだことが一切にとって何らかの利益になったことを除いて。次に彼は、受難の一切の告白は中傷を強めこそすれ、解消することはないと考えている。実に彼は、それに関してパウロの許で哲学された諸々の事柄も、預言者たちによって言われた諸々の事柄も知らない。また、諸々の異端の中にいる人たちの或る人が、イエスはそれらの事柄を外見において苦しんだのであって、(実際には)苦しんでいないと言ったことに気づいていない[1]。実際、彼が(それを)知っていれば、次のように言わなかった:「あなた方は実にこのことも、すなわち、彼がそれらの事柄を苦しむように不敬虔な人間たちには見えたが、(実際には)苦しまなかった、と言わなかった。あなた方は、彼が紛れもなく苦しんだと告白する」と。しかし、我々は、「(外見的にそう)見える」という言葉を、「(実際に)苦しむ」という言葉の上に置かない――他ならぬ彼の復活が虚偽ではなく真実であるために。なぜなら、真実に死んだ方は、もしも復活すれば、真実に復活したのであり、死んだように見える者は真実に復活しなかったからである。

しかし、イエス・キリストの復活に関する事柄を、不信仰者たちは嘲笑しているので、我々はさらに、次のように言うプラトンを引用することにしよう:「アルメニオスの(息子)エルは、十二日後に、火葬場から起き上がり、黄泉の中にある諸々の事柄を報告した[2]」と。不信仰者たちに対しては、レラクレイデスの許の息絶えた女に関する諸々の事柄も、目下の論題にまったく無益なことにならないだろう。また、多くの人たちが諸々の墓から戻ってきた――同じ日においてばかりでなく、実に次の日にも――ことも報告されている。したがって、たちのために逆説的に多くの事柄を――それらの事柄が起こったことを正視できない人たちが、それらを諸々の魔術に擬することによってそれらを悪視するほど――明晰に行った方が自分の終末に当たっても何か充全なことをもったとしても、どうして驚くべきことか――(自分の)魂がみずから進んで身体を置き去り、自分の外で何らかの諸々の事柄を経綸した後、望むときに再び戻るために。そのような言葉を、ヨハネの許でイエスは、次の言葉の中で言ったと書き記されいる:「誰も私の魂を私から取り除かない。むしろ私が、それを私自身から置く。私はそれを置く権能を持ち、逆にそれを受け取る権能も持つ[3]」と。そして、おそらくそれ故に、身体を保つために、そして、彼とともに十字架に付けられた泥棒たちの諸々の脚と同様に諸々の脚が折られないようにするために、彼は(それを)先取りして、身体から出ていったのだろう。実際、「兵士たちは最初の者の諸々の脚を折った。そして、彼とともに十字架に付けられた他の者の(諸々の脚)を折った。しかし、彼らはイエスの許に行来、彼が息絶えているのを見ると、彼の諸々の脚を折らなかった[4]」。

そこで我々は、次の言葉に対しても言いたい:「彼が予言したということは、どういうことから信頼できるのか」、「死者は、どういうことから不死なのか」。望む者は、死者が不死なのではなく、使者たちから復活した者が不死であるということを学ぶべきである。したがって、死者は不死でないどころか、死の前のイエス――彼は複合的な者である――も不死ではなかった。なぜなら彼は、死すべきだったからである。実際、死すべき者は誰一人として不死ではない。むしろ、もはや死なないだろうとき、不死である。「使者たちから復活させられたキリストは、もはや死にません。死はもはや彼を支配しません[5]」――それらの事柄がどのような意味で言われているかを理解する余地のない者たちがそれを望まなくても。



[1] Docétisme. déjà dénoncé par Ign.Ant.,Ad Trall.10; Iren.,Adv.haer.I,24,2, etc.                                                                    

[2] Platon, Res.,614-621..                                                                    

[3] Jn.10,18.

[4] Jn.19,32-33.

[5] Rm.6,9.

 

次へ