17 次の言葉も甚だしく愚かである:「一体どのような神、あるいはどのような悪霊、あるいはどのような思慮ある人間が、そのような諸々の事柄が自分に起こると予見し、回避できたのに回避せず、予知した諸々の事柄に立ち向かっただろうか」と。実にソクラテスも、毒人参を飲めば死ぬであろうことを知っており、クリトンに聞き従ったなら牢屋を抜け出して、それらの何一つ苦しまないでいることもできたのに、理にかなっていると自分に思われる事柄に即して、哲学的に死ぬことの方が、非哲学的に生きることよりも優れていると決断した[1]。そればかりかラケダイモン人たちの長官レオニダスも、テルモピュレスの中の人たちとともに間もなく死ぬだろうと知って、恥ずかしく生きることを潔しとせず、自分と一緒にいる者たちに、「我々は、黄泉の中で晩餐をするであろうように、朝食をとろう[2]と言った。そのような諸々の物語を集めることに関心がある者たちは、多くの事柄を見出すだろう。イエスが、(自分に)起こる諸々の事柄を知っていながら回避せず、こともあろうに予め知っていた諸々の事柄に直面したとすれば、何と驚くべきことか。彼の弟子・パウロも、エルサレムの中に上る自分に起こるであろう諸々の事柄を聞いて、諸々の危険をものともせず進んだ――彼をめぐって嘆き悲しみ、エルサレムに上ることを妨げる人々を叱った[3]。私たちの周囲の人たちの多くも、キリスト教を告白すると死ぬだろうということ、しかし否定すると放免され、諸々の財産を取り戻すであろうということを知っていながら、命を軽視し、敬神のための死をみずから進んで選び取った。



[1] Cf.Platon.,Criton,44-46.

[2] 省略

[3] Cf.Ac.21,12s.