18 それに続いて、ケルソスの許のユダヤ人はさらに別の愚かしさを言っている:「裏切るだろう者と拒むだろう者を予見したのであれば、どうして彼らは(彼を)神とみなし、裏切ること、拒むことを恐れなかったのか」と。事実に、もっとも賢明なケルソスは、この箇所の中の矛盾を見ていない:すなわち、彼がもしも神として予知したのであれば、彼の予知が誤ることは不可能だったのであり、裏切るだろうと予知された者が裏切らないことも、拒むだろうと言われた者が拒まないことも不可能だった。しかし、もしも一方の者が裏切らないだろうことが可能であり、他方の者が拒まないことが可能で、その結果、裏切らないことと拒まないことが、それらのことを予め学んだ者たちの中で起こったとすれば、かくかくの者が裏切り、しかじかの者が拒むだろうと言う方がもはや真実でなかったことになる。それと言うのも、もしも彼が裏切るだろう者を予知していたとすれば、彼は邪悪――その人がそれによって裏切るだろうところの邪悪、そして、予知によって覆されなかったところの邪悪――を知っていた。また同様に、拒むであろうものを予め把握していたとすれば、彼は弱さ――それによってその人が拒むであろう地おころの弱さ――を見て、その人は拒むであろうと予言した。しかしその弱さは、予知によってそうたやすく覆されるものではなかった。しかし、「彼らは裏切り、拒んだ――彼をまったく配慮せずに」という言葉はどこから来るのか。実際、裏切る者について、彼が師を決して配慮せずに裏切ることは虚偽であることが示されていた[1]。それに劣らず、拒んだ者についても、次のことが示される:拒んだ後、「外に出て行った」彼は、「痛烈に泣いた[2]」と。



[1] Cf.C.Celse,II,11.

[2] Mt.26,75.

 

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