ところで我々が、割礼を受けた者たちにキリスト教を教えた人たちとペトロとについの話に関わったからには、『ヨハネによる福音』からイエスの何らかの言葉を引用し、それを解釈するのは場違いだとは私には思われない。イエスは次のように言ったと書かれています。「私は、まだあなた方に語るべき多くの事柄を持っている。しかしあなた方は今、担うことはできない。しかしあの方、すなわち真理の霊が来たとき、その方があなた方をすべての真理に導いてくださる。その方は、自分から語るのではない。聞く限りのことをあなた方に語るであろう[1]」と。そして我々は、この個所で、当時のイエスの弟子たちには担うことができないとされたイエスの語るべき多くのこととは何であるかを探求したい。私としてはこう言いたい。すなわち弟子たちは、ユダヤ人として、文字に即したモーセの律法とともに育てられていたため、おそらくイエスは、真の律法が何であるか、ユダヤ人たちの間の礼拝が、どのような「天の事柄のしるしと影[2]」において行われていたか、食べ物や飲み物、祭りや新月、安息日に関する律法が[3]、どのような「来るべき善き事柄の影[4]」を含んでいたかを語らねばならなかったのではないか。そしてイエスが彼らに語るべきことはたくさんあった。しかし(イエスは)、魂から、成年に達するまでほとんどそれと共に生まれ育った諸々の教え、しかもそれらの教えを受け入れた者たちに、それらは神的なものであり、それらを捨てることは不敬虔であると確信させていた諸々の教えを取り去り、キリストに即した、すなわち真理に即した知識の卓越性の下では、それらは「あくた」であり「損失[5]」であることを明らかにして、聞く人たちにそれを確信させることはきわめて難しいと見ていた。そこでイエスは、(この課題を)受難と復活の後の適当な時機に委ねたのである。実に、まだそのことを受け入れることができない人たちに助けを与えることは、時宜に適っていることではなかった。なぜならそうすることは、(彼らが)既にイエスに抱いていた見解、すなわちイエスは「キリストであり、生ける神の子である[6]」という見解をまさに破壊することになりかねないからである。そしてあなたは、「私は、まだあなた方に語るべき多くの事柄を持っている。しかしあなた方は今、担うことはできない[7]」という言葉を上記のように聞くことに軽蔑すべからざる意味があるのではなか、ご注目ください。実に「多くの事柄」とは、律法の霊的な事柄に即した解釈と解明に関する事柄である。そしてユダヤ人たちの間に生まれ育った当時の弟子たちは、それらの事柄をいわば「担う」ことができなかったのである。

 それらの(多くの)事柄は予型であり、真理は聖霊が彼らに教えることになっていたため、次のように言われていると、私は考えている。すなわち「その方、すなわち真理の霊が来たとき、それは、あなた方を一切の真理に導くだろう[8]」とある。それはあたかも、諸々の事柄の予型の中で神を礼拝することが真の礼拝であると思っていたあなた方を、それらの事柄の一切の真理へと導くと言っているようなものである。そしてイエスの約束に従って「真理の霊」がペトロのところに来て、四足動物や地を這うもの、および空の翼あるものについて、「ペトロ、立って、屠り、食べよ[9]」とペトロに言った。しかも真理の霊は、まだ迷信に捕らわれていた彼に来た。なぜなら彼は、神的な声に対して「主よ、とんでもございません。私はこれまで一度も、清くないものや穢れたものを食べたことがありません[10]」と言っているからである。そして真理の霊は、真の霊的な食べ物についての教えを、「神が清めたものを、あなたは清くないものにしてはならない[11]」という言葉の内に教えたのである。この幻視に続いて真理の霊は、ペトロを一切の真理へと導いた。そしてイエスがまだ肉において彼と共にいたときには、担うことができなかった「多くの事柄[12]」を彼に語ったのである。とはいえ、これらの事柄に関するモーセの律法の解釈の問題を説明することは、別の機会に譲ることにしよう。



[1] Jn.16,12-13.

[2] He.8,5.

[3] Col.2,16.

[4] Cf.He.10,1.

[5] Ph.3,8.

[6] Mt.16,16.

[7] Jn.16,12.

[8] Jn.16,13.

[9] Ac.10,12-13.

[10] Ac.10,14.

[11] Ac.10,15.

[12] Jn.16,12.

 

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