さて目下の課題は、ケルソスの無学を論駁することである。ケルソスの著書のユダヤ人は、イエスを信じるに至った同郷人とイスラエルの人たちに対して次のように言っている。あなた方はどのような苦難を味わって父祖の律法を捨てたのか云々と。しかし彼らはどのような意味で父祖の律法を捨てたのであろうか。彼らは、父祖の律法に聞き従わない人たちを非難して次のように言っているのである。「あなた方は、私に言ってください。あなた方は律法を呼んでも、律法に聞き従いません。(律法には)こう書いてあります。アブラハムには二人の息子がいた」から「それらは比喩的に解釈されています[1]」まで云々。いつも自分たちの諸々の話の中で父祖たちのことを思い出している彼らは、どのような意味で父祖の律法を捨ててのであろうか。彼らは、次のように言っている。「それとも律法もそれらのことを言っていないのだろうか。確かにモーセの律法に次のように書いてある。あなたは、歩き回っている牛に口輪をはめてはならないと。神は、諸々の牛のことを気に掛けておられるのか。それともまったく私たちのために神はそう言っているのか。確かに私たちのために書かれたのである[2]」云々。それにどれほど混乱した仕方で、ケルソスの著作のユダヤ人はそれらのことを語っていることか。彼は次のようによりもっともらしく語ることができたのに。すなわち、あなた方の内のある者たちは、諸々の解釈と諸々の比喩を口実に、諸々の習慣を捨てた。またある者たちは、あなた方の言うとおり霊的に解釈しながらも、父祖の諸々の事柄を守っている。またある者たちは、解釈することはないが、イエスを預言された方として受け入れようと望み、モーセの律法を、言葉の中に霊のすべての意味を含むものとして、父祖伝来の通りに受け入れようとしていると。しかしケルソスは、何を根拠に、この箇所に関する事柄を明らかにすることができるだろうか。彼は、引き続く箇所で、神を否定してイエスとはまったく無縁の諸々の異端や、創造主を捨てた他の者たちに言及しているのである。彼は、イエスを信じつつも父祖の律法を捨てていないイスラエル人がいることを知らない[3]。実に彼には、何か有益な物を見出したならそれを受け入れようという目論見の下にこの箇所に関する事柄全体を忠実に検討しようという意図が欠落しているのである。むしろ彼は敵意に駆られて、(これらに事柄を)耳にするならば直ぐに覆そうと考えて、以上のようなことを書いたのである。



[1] Ga.4,21-24.

[2] 1Co.9,8-10.

[3] パレスチナでは、2世紀ごろまでユダヤ・キリスト教とキリスト教徒は一体をなしていたようである。

 

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