23 それらの事柄の後で、彼は言う:「もしもそれらの事柄が彼によって決断されたものなら、そして、父に従って懲らしめられたとすれば、神であり、かつ、(それらを)望んでいる彼にとっては、意図に従って行われた諸々の待遇は、苦痛でもなければ、悲痛でもなかったのは明らかである」と。実に彼は、諸々のまったく正反対の事柄を自分自身に言っているのが分かっていなかった。もしも彼が、自分が懲らしめられることを許していたなら、それらの事柄は彼によって決断されたことであり、父に従って自分自身を(父に)委ねたのであるから、彼が懲らしめられたこと、そして、懲らしめる人たちによって加えられる諸々の事柄が苦痛ではないことはありえなかったことは、明らかである。なぜなら苦痛は選択的な意志にかかわらないからである。しかしもしも、(それらを)望んでいる彼にとって、課せられた諸々の事柄が苦痛でもなければ悲痛でもないとすれば、どうして彼は、「懲らしめられた」という言葉を与えたのか。しかし彼は、次のことを見なかった:すなわち、ひとたび彼が誕生を通して身体の取ったからには、彼が、諸々の苦痛と、しかも諸々の身体に起こる諸々の悲痛とを受け入れる身体を取ったということを――もしも彼が、「悲痛」という言葉を選択的な意志によらないものとして理解するならば。したがって、(それらを)望んだ彼が人間的な肉と全く異なる本性のものではない身体を取ったのと同じように、彼は、身体とともに、その諸々の苦痛と諸々の悲しみを取ったのである。彼は、(それらを)苦しまないためのそれらの主人ではなかった。なぜならそれらは、諸々の苦痛と諸々の悲痛を彼に課すことを任された者たちに掛かっているからである。我々は以前のもろもの箇所の中で、次のことを弁明した:(それらを)彼は、人間たちの諸々の手の中に入ることを望まなかったなら、来なかっただろうと。しかし、彼はきた。なぜなら彼は、既に述べられたことの故に、彼が人間たちのために死ぬことから万人にとっての利益を望んだからである。

 

 

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