次に、彼の許にいるユダヤ人は、民の中から信じた人たちに対して次のように言っている:「昨日と一昨日――我々が、あなた方を司牧した人を懲らしめたとき――あなた方は、父祖的な律法から離反した」と。しかし、我々が示したように、彼は、自分が語った諸々の事柄において正確なことを何も知らない。それらの事柄の後で、次の言葉は鬼才を発揮しているように私には見える:「そもそも、どのようにしてあなた方は、我々の神聖な諸々の(言葉)から出発して前進し、それら(の言葉)を軽蔑するのか――我々の律法以外に、教義の他の源泉を持たないのに」と。真にキリスト者たちにとって(入信の)手引きは、モーセと預言者たちの諸々の神聖な書物から始まる。そして、(入信の)手引きの後で、それらの(書物の)解釈と解明の中で、手引きされた人たちにとって進歩がある。彼らは、「啓示に従って」神秘――「諸々の時の中で」沈黙していたが、「今や、諸々の預言的な声と我々の主イエス・キリストの顕現の中で明らかにされた」神秘[1]――を探求している。しかし、あなた方が言うように、進歩する人たちは、律法の中に書かれた諸々の事柄を軽蔑したりはしない。むしろ彼らは、一層大きな名誉でそれらを取り囲み、それらの書かれた諸々の事柄が諸々の知恵と曰く言い難い諸々の言葉のどれほど深い深みを持っているかを証明する。それらの事柄は、ユダヤ人たちによって観想されていない。なぜなら彼らは、より皮相的に、かつ、より作り話的に、それらの言葉に当たっているからである。

しかし、我々の教義すなわち福音の源泉が律法であることが、どうして馬鹿げているだろうか。実に我らの主も、ご自分を信じない人たちに対して次のように言っている:「もしもあなた方がモーセを信じるなら、あなた方は私を信じるだろう。なぜなら、私について彼は書いた身体。しかし、もしもあなた方が彼の諸々の書物を信じないなら、どうして私の諸々の発言を、あなた方は信じるのか[2]」と。そればかりか、福音記者たちの一人マルコも、言っている:「イエス・キリストの福音の源泉――預言者イザヤの中にこう書いてある通りに――見よ、私は私の使いをあなたの顔の前に派遣する。彼は、あなたの前で私の道を整える、と」。彼はこう言って、福音の源泉がユダヤ的な諸々の書物に結ばれていることを示している。そうであれば、ケルソスの許にいるユダヤ人によって何が私たちに対して言われるのか――「あるいは、もしも人があなた方に、そもそも神の子は人間たちの中に到着するだろうと預言したなら、彼は、我々の預言者、しかも我々の神の預言者であった」という言葉の中で。イエスに洗礼を授けたヨハネがユダヤ人であるからといって、どのような非難がキリスト教にあるのか。なぜなら、彼がユダヤ人であったことから、信じる人は皆――諸国民からみ言葉に近づく人であれ、ユダヤ人たちから近づく人であれ――モーセの文字に即して律法を守るべきだということは帰結しないからである。



[1] Cf.Rm.16,25-26 et 2Tm.1,10.

[2] Jn.5,46-47.

 

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