30 またケルソスは、次のことも脇付けした:「誰一人として、神と神の子を、そのような諸々の象徴と諸々の噂話から提示しなかったし、そのように諸々の卑賤な証拠から提示しなかった」と。しかし彼は、それらの噂話を引用した上で論駁し、それらの卑賤な証拠を言論によって証明すべきだった――キリスト者が何かしら説得的なことを言っているように見えたとしても、そのことに対して彼が戦い、その言論を覆すために。彼がイエスについて言ったことは、偉大な人関することとして生じた。しかし彼は、そのことが生じたことを見ようと望まなかった――明証性がイエスに関して証明するとして。「実際、他のすべてのものを照らす太陽が、まず自分自身を示すように、神の子もそのように行うべきだった」と彼は言う。もちろん我々は、彼がそう行ったと言いたい。実際、「それらの日の中で彼の義と平和の充満が昇った[1]」という言葉は、彼の誕生(のとき)から始まって実現した:(そのとき)神は彼の教えによって諸国民を準備した――ローマ人たちの一人の王の下にいさせるために、そして、多くの王たちの(下に居たという)口実による諸国民の相互の交わりのなさの故に、イエスの弟子たちにとって、彼が次のように言って彼らに命じたことを行うことがいっそう困難にならないようにするために:「あなた方は行って、すべての諸国民を教えなさい[2]」と。実に次のことは明白である:すなわち、アウグストゥス――彼は、行ってみれば単一の支配を通して地上の多くの人たちを一様にした――の治世にイエスが生まれたこと。多くの統治が存在することは、イエスの教えが全居住地に広められることにとって障害だっただろう――諸々の記述の事柄の故にばかりでなく、あらゆる所にいる人たちが軍役に就き、諸々の祖国のために戦うことを強制されていることの故に。そのことは、アウグストゥスの諸々の時の前に、さらにもっと前に、その必要があったとき、起こっていた;たとえば、ペロポネソス人たちとアテナイ人たちの戦争は、そのようにあったし、また、他の者たちに対する別の者たちの(戦い)もあった。したがってどのようにして、その平和的な教え、しかも敵たちに報復することを許さない教えは広まることができただろうか――もしも、イエスの到来の時、全地の諸々の事柄が、あらゆる所で、より穏やかな状態に変えられていなかったとすれば。



[1] Ps.71,7.

[2] Mt.28,19.

 

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