33 ケルソスは言う:「人間たちを軽蔑し、起こった事柄を嘲笑し弄んだこのイエスは、神として、どのような高貴なことを成し遂げたのか」と。たとえ我々が、彼に起こった諸々の事柄に対して高貴なことと逆説的なこと提示することができるとしても、(そのように)尋ねる彼に、我々は、諸々の福音以外のどこから答えたらよいだろうか:すなわち、「土地は揺り動かされ、諸々の岩は引き裂かれ、諸々の墓は開かれた。そして、神殿の垂れ幕は上から下まで引き裂かれた。そして、日中だというのに、太陽が食して、闇が生じた[1]」とある。しかし、もしもケルソスが、イエスとキリスト者たちを非難することを考えるときには諸々の福音を信じ、彼らがイエスにおける神性を証明する場合に(それらを)信用しないなら、我々は次のように言いたい:おやまあ、あなたはすべて(の福音)を信用すべきでなく、非難することも考えるべきでない。それともあなたは、すべてを信じて、人間になって人間たちの種族を支援することを望んだ神のみ言葉を驚嘆すべきである。そして、神が望む人たちが今日に至るまで癒されていることが、イエスの高貴な業である。そして、ティベリウス皇帝の時の()食について――彼が支配していたときに、実にイエスは十字架につけられたと思われる――、そして、そのとき起こった土地の諸々の大きな揺れについて、フレゴスも『年代記』の第13巻か第14巻に記載していると、私は思っている[2]



[1] Cf.Mt.27,51-52; Lc.23,44-45.

[2] Cf.C.Celse.,II,14.

 

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