36 次にケルソスは言う:「実に(彼の)身体が尖り杭を刺されたとき、(彼は)何を言っているか:神的な至福者たちに流れる妙液の如きものが(流れ出た)[1]」と。彼は実にふざけている。しかし、我々は、諸々の真剣な福音から、たとえケルソスが望まなくても次のことを立証するだろう:「神話的でホメロス的な妙液は、彼の身体から流れ出なかった;すでに彼は死んでいたので、「兵士たちの一人が槍で脇腹を突いた。そして、血と水が流れ出た。そして、(それを)見た者が証をした。そして、彼の証は真実である。そして彼は、(自分が)諸々の真実を語っていることを知っている[2]」と。たしかに他の死者たちの諸々の身体の血は固まり、清浄な血は流れ出ない。しかし、実に死者の身体に関する逆説は、イエスの場合の死んだ身体の両脇から、「血と水」が流れ出たことだった。しかし彼が、イエスとキリスト者たちを非難するために、福音から(彼自身が)よく解釈しない諸々の表現を持ち出す一方で、イエスの神性を立証する諸々の事柄に沈黙しているにもかかわらず、諸々の神的なしるしを理解することを望むなら、彼は福音を読み、次のことを見るべきである:すなわち、「百人隊長や彼と一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震と諸々の起こった事柄を見て、大いに恐れ、『彼は神の子だった』といった[3]」。



[1] 省略

[2] Jn.19,34-35.

[3] Mt.27,54.

 

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