それらの後で、ケルソスはイエスについて同じことを言っている――彼は、(イエスが)間違いを犯したのでユダヤ人たちの許で罰を受けたと言っている。しかし我々は、弁明を繰り返さない。前に述べられた弁明で十分である。次に、ケルソススの許のユダヤ人は、死者たちの復活と、神の裁きと、正しい人たちの誉れと、不正な人たちの人に関する諸々の事柄を古臭いものとして軽視して、「キリスト者たちは、それらの事柄の中で、何も新しいことを教えていない」と主張して、キリスト教を覆すことを考えている。彼らに対して次のことが言われねばならない:我らのイエスは、ユダヤ人たちが預言者たちの中の諸々の教えに相応しいことを何も実践していないのを見て、たとえ話を通して「神の国は、彼らから取り上げられ、諸国の民の出身者たちに与えられるだろう[1]」と教えた。それゆえ、ユダヤ人たちのすべての事柄は諸々の作り話と諸々の駄弁に属しており――実際、彼らは、諸々の()文書の覚知の光を持っていない――、他方でキリスト者たちの諸々の事柄は真理であることを真実に見ることができる。実にキリスト者の諸々の事柄は、人間の魂と精神を高め引き上げることができ、ユダヤ人たちのように「本国」のようなものを下方のどこかに持つのではなく、「諸々の天の中に」持つと説得する[2]。そのことは、律法と預言者たちとにおける諸々の思念の偉大さを観想する人たち、かつ、(それらを)他の人たちに提示することのできる人たちの許で明らかに現れる。



[1] Mt.21,43.

[2] Ph.3,20.

 

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