かりにユダヤ人たちに即した諸々のすべての習慣――彼らの許の諸々の生け贄に至るまで――を、イエスは行ったとしよう。しかし、どうしてそのことから、「彼を神の子として信じるべきでない」ということが帰結するのか。実にイエスは、律法と預言者たちを与えた神の子である。そして、「教会に由来する私たち」は[1]、その律法を踏み越えない。そればかりか私たちは、ユダヤ人たちの諸々の神話を避けた。そして私たちは、律法と預言者たちのとの神秘的な観想によって思慮分別を与えられ、教養を与えられている。実際、預言者たちは、語られた事柄の諸々の理解を明白な歴史(的物語)の中にも、諸々の表現と諸々の文字とに即した法制の中にも安穏にさせなかった。そのため彼らは、ある時は、次の言葉を表明して諸々の歴史を語る:「私は、諸々のたとえの中で私の口を開き、始原以来の諸々の問題を話そう[2]」と。またある時は、彼らは律法について、それが不明瞭で、理解されるには神を必要としていることを祈り、祈りの中で次のように言っている:「あなたは、私の諸々の目の覆いを取り除いてください。そうすれば私は、あなたの律法に由来するあなたの諸々の驚くべき事柄を理解するでしょう[3]」と。



[1] 「教会に由来する私たちは」という言い回しは、「異端者たち」を意識して用いられている。

[2] Ps.77,2.

[3] Ps.118,18.

 

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