50 パウロも、『テサロニケの人たちへの第二の手紙』の中で、次のことを証明している:「無法の者が、滅びの息子が、神と呼ばれる一切のものや崇拝の対象を超えて自らを高めて自らを神の神殿の中に鎮座せしめ、自分自身を神であると表明する敵対者が、ある時、どのような仕方で開示されるかを[1]」。そして再び彼は、テサロニケの人たちに次のことを言う:「そして、彼が自分の適時の中で開示されるための(彼を)抑えるものをあなた方は知っています。実際、無法の神秘が働いていますが、(彼を)いま抑えている者がやがて現れる(とき)までです。そのとき、無法者が開示されるでしょう。そして神は、ご自分の口の霊によってその者を取り除き、ご自分の臨在の顕現によって彼を無効にするでしょう。その者の臨在は、サタンの働きに従って、一切の力と諸々のしるしと偽りの諸々の驚嘆との中で、そして、不正の一切の欺きの中で、滅びゆく者たちに対して存在しています[2]」と。また彼は、無法者が生活に留まることが許されていることの理由を提示して、次のことを言っている:「なぜなら彼らは、救われるために真理の愛を受け入れなかったからです。実にそれ故に、神は迷いの働きを彼らに派遣します――それは、彼らが虚偽を信じることによって、真理を信じず、不正の中で満足したすべての者たちが裁かれるために[3]」と。

したがって、人は我々に言うべきである:福音の中の諸々の箇所の何かが、あるいは使徒の許の諸々の箇所の何かが、この箇所で予め告げられている魔術の嫌疑の余地を提供し得るかどうかを。しかし、望む者には、ダニエル()からも、アンチ・キリストに関する預言を引き出すこともできるだろう[4]。しかし彼は、イエスの諸々の言葉を捏造している。なぜなら、他の者たち――悪人たちと魔術師たち――が同じような諸々の力によって臨在するだろうとイエスは言わないのに、彼は、イエスがそのようなことを言ったと言っているからである。実際、エジプトの中の呪術師たちの力は、モーセの中の逆説的な恵みに似ていない。しかし結末は、エジプト人たちの諸々の事柄が魔術であり、モーセの諸々の事柄が神的であることを証明していた[5]。同様に、アンチ・キリストたちと、イエスの弟子たちの如き諸々の力を僭称する者たちの諸々のしるしと諸々の驚嘆は諸々の虚偽――不正に属する一切の欺きの中で、滅びる者たちに対して力ある虚偽――であると言われている。それに対し、キリストと彼の弟子たちの諸々(のしるしと驚嘆)は、欺きでなく、魂たちの救いを実りとして持っていた。いったい誰が、邪悪に属する諸々の事柄を日毎にいっそう小さくさせるいっそう優れた生活が欺きから生じると理に適った仕方で言うだろうか。



[1] 2Th.2,3-4.

[2] 2Th.2,6-10.

[3] 2Th.2,10-12.

[4] Dn.7,23-26.

[5] Cf.Ex.7,8-12.

 

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