51 しかしケルソスは、()文書からの言葉を見ていた――あるサタンがそのような諸々の事柄を詐取するだろうとイエスに言わしめたとき。ところが彼は、それらの事柄が神的なものをまったく持たず、諸々の邪悪の諸々の業であることをイエスは否定する者ではないと主張することによって、議論を先取りしている。彼は、それらの事柄を、異類のものであるにも関わらず、同類のものにした。実に狼が、身体の形状と声の中で(犬と)何かしら似たようなものを持っているように見えても、犬と同類でなく、また山鳩が家鳩に(同類でない)と同様に、神に力によって遂行されるものは、魔術から生じるもとの似たものを何も持たない。

さらに次の諸々の事柄を、ケルソスの諸々の邪悪さに対して我々は言いたい:いったい諸々の力が魔術に即して邪悪な悪霊どもから生じる一方で、如何なる力も神的で幸いな本性によって成し遂げられないのか。また、人間の命は、諸々のより劣った事柄を帯びていて、諸々のより優れた事柄を受け入れる余地を一度も持たなかったのかと。次のこと、すなわち、何らかのより劣った事柄がいっそう優れた事柄と同類であると僭称する場合、そこには(それに)対峙して何らかのより優れた事柄が存在するということを万事につけて定立すべきであるのと同様に、魔術に従って成し遂げられる諸々の事柄に関しても、実に神的な働きから、この命の中に生じる諸々の事柄が存在するのはまったく必然であると私には考えられる。そして、(善と悪の)両方の事柄を除去して、いずれも生じなかったと言うことと、他方の事柄――取り分けより劣った事柄――を措定しつつ、より優れた事柄についても告白することは、必然的に同じ事柄に属している。しかしもしも人が、魔術に由来する諸々の事柄が生じることを措定し、神的な力に由来する諸々の事柄が生じることを措定しないなら、その人とは次のを措定する人に似ているように私には見える:すなわち、一方で諸々の詭弁と諸々の説得的な言説――それらは、真理から外れているにもかかわらず、諸々の真実を提示するように見せかかている――が存在する一方で、真理と、諸々の詭弁とは無縁な問答法が人間たちの許で決して自由市民にならないこと(を措定する人)

しかし、ひとたび我々が次のことを受け入れたなら、悪霊たち――入念な諸々の呼びかけによって魅了され(た悪霊たち)、魔術師としての人間たちに聞き従う邪悪な悪霊たち――によって働かされる魔法と魔術が実体的に存在するということから、神的な力に由来する諸々の事柄が人間たちの中に見出されねばならないということが必然的に帰結する。我々は、次のことを諸々の力に従う人たちの生活と品行から詳細に吟味しなければならない:何故に我々は諸々の力を約束する人たちが、人間たちの損害になるのか、あるいは、諸々の品行の矯正になるのか;一方で誰が、悪霊たちに仕えて、何らかの諸々の祈願と諸々の詐術を通してそのような諸々の事柄を行うのか;他方で誰が、清く聖なる場所の中で、自分自身の魂と霊と――そして私が思うに身体にも――即して神の許に似たり、何らかの神的な霊を受け取って、人間たちの利益のため、そして、真理的な神を信じることへの促しのために、そのような諸々の事柄を実践するのかを。しかし、一方で誰がより優れたものから、他方で誰がより劣ったものからそのような諸々の力を成し遂げるかを――我々がすべての事柄を悪く言わないようにするため、あるいは、すべての事柄を神的なもとして我々が賞賛し受け入れることのないようにするために――諸々の力によって捕らわれずにひとたび探求しなければならないとすれば、どうして次のことは明白にならないだろうか:すなわち、モーセ(の時代)とイエス(ヨシュアの時代)に起こった諸々の事柄から――諸国のすべての民が彼らの諸々のしるしの後で集合したのであるから――彼ら(モーセとイエス)が行ったと(聖文書に)記載されている諸々の事柄を彼ら(モーセとイエス)が神的な力によって行ったのことは。実際、邪悪と魔法は、異邦人全体――諸々の彫像と、人間たちによって設置された諸々の物品を乗り越えたばかりでなく、一切の(自然)本性を超えて、万物の神の造られざる始源に上り詰める異邦人全体――を集合させなかっただろう。

 

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