56 しかし、黄泉の中に降り、また、そこから昇ってきたと言われる者たち:たとえば、一時の間に不可視的になって、すべての人間たちの視覚から自分たち自身を隠し、それらの事柄の後で自分たち自身を顕現する英雄たち、黄泉から昇ってきた英雄たち――なぜなら彼の言い回しは、オドゥリュセースの中のオルフェウスとテッサリアの中のプローテシラオスとタイナロスでのヘーラクレウスとについて、さらには、テーセウスについて、それらの事柄を表しているように見えるからである――についての英雄的な諸々の物語が諸々の驚嘆的な話であると、ケルソスの許のユダヤ人は言っているのであるから、さあ、我々は、次のことを証明しよう:すなわち、イエスが使者たちから復活したことについて物語られている事柄はそれらの諸々の事柄に対比されることができないということを。なるほど、諸々の場所に即して語られている英雄たちの一人ひとりは、望むなら、自分自身を人間たちの視覚から隠すこと、そして、決断するなら、自分が後に残した人たちの許に再び来ることができただろう。しかしイエスは、すべてのユダヤ人たちの前で十字架に付けられ、彼の身体は彼らの大衆の視覚の中で(十字架から)引き下ろされたのであるから、どうして人彼が、黄泉の中へ降り、また、そこから昇ってきた英雄たちに似た事柄を捏造したと、(人は)言うことができるのか。我々は次のことを主張する:「イエスが十字架につけられたことの類比として、おそらくそのようなことが言われ得るのではないか――黄泉の中へ降って言ったと無理やりに考えられている英雄たちについて物語られている諸々の事柄の故に。たとえば、もしも、仮説としてイエスが人知れない死を死んで、したがって、ユダヤ人たちの大衆全体にとって彼が死んだこと、次いで、それらの事柄の後で彼が使者たちの中から本当に復活したことが明瞭でないとすれば、英雄たちについてと、彼について憶測される事柄が言われたことは口実を得ていたかもしれない。したがって、イエスが十字架につけられたことの他の諸々の理由に対しては、彼が顕著な仕方で十字架の上で死んだことに、次のことも加わり得るのではなかろうか。それは、誰も次のことを言うことができないようにするためである:「彼はみずから進んで、人間たちの視覚から隠れ立ち、死んだと見せかけいて、死んでいなかった;そして自分が望むときに、再び顕現して、死者たちからの復活を驚嘆的に話した」と。しかし私は、人間たちの生活にとって危険な教えに自分たち自身を捧げた彼の弟子たちからの試みは明瞭で明晰であると思う。彼らは、イエスが死者たちから復活したことを捏造したならば、その教えを力強く教えなかっただろう。しかも彼らは、その(イエスが復活した)ことに即して死を軽蔑することへと他の人たちを準備するばかりでなく、彼ら自身がずっと前に、そのことを行った。

 

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