59 (ケルソスの許のユダヤ人は)地震と闇も驚嘆的な話であると思っている。それらのことについては、上記の諸々の箇所の中で力を尽くして、我々は弁明した。そして、救い主の受難の時にそれらの類の諸々の事柄が起こったことをフレゴーンが物語っているのを、我々は引用した:すなわち、「イエスは生きているとき自分自身を守らなかったが、死んだときは復活して、懲らしめの諸々のしるしと、(釘を)通された諸々の手を示した[1]」と。そして我々は彼に、「自分自身を守った」ということが何であるかを尋ねた:もしもそれが徳のためであれば、我々は、「彼がよく自分自身を守った」と言うだろう。なぜなら彼は、場違いなことを何一つ発せず、行わなかったからである。むしろ彼は本当に、「羊が屠殺場に引かれたように、そして、散髪する者を前にした声なき羊のよう」だった。福音も、「そのように、彼は自分の口を開かなかった[2]」と証している。しかし、もしも「彼が(自分自身を)守らなかった」という言葉を、諸々の中間的で身体的な事柄から(ケルソスの許のユダヤ人が)捉えるなら、我々は、彼がみずから進んンでそれらの事柄に進んだということを諸々の福音から証明したと、我々は主張する。次に、それらの言葉に続いて彼は、福音からの諸々の言葉――すなわち、死者たちの中から復活すると、彼は、懲らしめの諸々のしるしと、(釘に)貫かれたままの諸々の手を示したという言葉――を述べ、質問して次のことを言う:「誰がそれを見た」のかと。そして、(それを)見たと記載されているマグダラのマリアに関する諸々の事柄を中傷して、「あなた方が言っている通り、狂信的な夫人だ」と言った。そして、彼女だけが、復活したイエスを見たと記載されているのでなく、他の人たちも(見たと)記載されているので、ケルソスの許のユダヤ人は、さらにそれらの事柄を曲解し、「同じ魔術に属する人たちの中に、さらに他の誰かがいるとしても」と言う。



[1] Cf.Contra Celsum, II,14 et 33.

[2] Is.53,7; Mt.26,62-63; 27,12.

 

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