60 次に、そのこと――私は、死んだ人が生きているかのような想像がある人に生じることを言っている――が起こるのか可能であるかのように、彼はエピクロス派として次のことを付け加え、言っている:「何らかの体勢に従って夢想した人が、あるいは自分の意思に従って蒙昧な思いなしの内に空想した人が、そのようなことを報告した」と。しかも彼は、そのことが既に無数の人たちに起こったと言っている。しかし、もしもそのことが極めて見事に言われていると(彼に)思われたなら、そのことはやり、死んだ者たちの魂が実在したという必然的な教説を準備するものである。そして、その教説を採用した人が、魂の不死あるいは少なくとも(その)存続について信じたのは空しいことではない。であるからプラトンも、魂に関する(対話の)中で、既に真た者たちの「影のような諸々の幻」が諸々の墓標の周囲である人たちに生じたと言っている。とにかく、諸々の墓標の周囲で生じた死んだ者たちの「諸々の幻」は、何らかの基体――光輝ある身体と言われるものの中に実在する魂――に由来する[1]。しかしケルソスはそのようなことを望まず、ある人たちが白昼夢を抱き、自分たち自身の望みに従って、誤った思いなしの内に空想していると主張する。その夢想が生じることを信じるのは、不条理なことではない。しかし、完全に発狂して錯乱したり鬱になったりしていない人たちに起こる幻覚は信じがたい。そして、ケルソスは損ことを予知して、狂気した婦人(のこと)を言った。しかし、書き記された物語――彼はここから(口実を)を得て、諸々の事柄を中傷する――は、そのことを明らかにしない。



[1] Cf.Platon, Phaedon 81 d; C.Celsum,VII,5; Com.Mt.17,30:(GCS 10, 671, 17-21).

 

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