しかし彼らは、イエスの許で自惚れから表明された言い回しの表れが、どこに見出されるか示すべきである。次のように言う方が、どうして自惚れ屋なのか:「あなた方は、私は柔和で、心において謙虚であることを、私から学びなさい。そうすれば、あなた方は、あなた方の魂において休息を見出すだろう[1]」と。あるいは、次のことをする方が、どうして自惚れ屋なのか:「食事のとき、弟子たちの前で(上着を)脱ぎ、亜麻布を(腰に)巻き、水を洗い桶に入れ、一人ひとりの諸々の足を洗い、また、それら(の足を)出そうとしない人を咎めて、『私があなたを洗わなかったなら、あなたは私と共に分け前を持たない[2]』と」。あるいは、次のように主張する方がどうして自惚れ屋なのか:「そして私は、あなた方のただ中で、横たわる人としてではなく、使える人としてあなた方のただ中に来た」と。また人は、彼が誰を欺いたか(論駁するつもりで)証明すべきである。そして人は、「イエスが諸々の大きな嘘をついた」ことを示すために、大小の諸々の嘘を提示すべきである。さらに別の仕方でも、彼(ケルソス)を論駁することができる:すなわち、欺瞞は欺瞞以上に大きな欺瞞ではないのと同じように、真実は真実以上に真実な真実ではなく、あるいは(真実以上に)大きな真実ではないと。また、特にイエスの「諸々の不敬虔的な事柄」がどのようなものか、ケルソスの許のユダヤ人は告げるべきである。そもそも次のことは不敬虔なのか:すなわち、身体的な割礼と身体的な安息日と身体的な諸々の祭りと身体的な諸々の新月()から[3]、そして、諸々の浄いものと諸々の浄くないものから離れること、また――「キリスト」ために大使となり[4]、「ユダヤ人たちを獲得するためにユダヤ人になり、律法の下にある人たちを獲得するために、律法の下にある一体のために律法の下にある者のようになることを学ぶ[5]」人と共に――精神を神に相応しい真理的霊的な律法へ移し変えること(不敬虔なのか)



[1] Mt.11,29.

[2] Jn.13,1-8.

[3] Col.2,16.

[4] 2Co.5,20.

[5] Cf.1Co.9,20.

 

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