61 したがってイエスも死後に、ケルソスが考えるには、十字架上での諸々の傷の幻想を送り出した人物だった――本当にそのような怪我人でなかったとして。しかし、福音が教えているように――ケルソスも、自分が望むその諸々の部分を、非難するために信じており、他の諸々の部分を信用しない――イエスは、弟子たちの中で、(彼の復活を)信用せず逆理は不可能であると考えていた一人を呼び寄せた[1]。かの者も、死んだ人の魂が見られたのは不可能ではないとして、彼を見たと主張する婦人に同意していたが、抵抗的な身体の中で(彼が)復活したのが真実であるとは[2]、まだ見なしていなかった。それでかの者は、「私は見ないなら、信じないだろう」と言い、さらに次のことを付け加えた:「私は、私の手を諸々の釘の跡の中に投げ、彼の脇腹を手探りするのでなければ、私は決して信じない[3]」。それらは、トマスによって言われていた。彼は、魂――「以前の形姿において全き大きさと美しい諸々の瞳と声を呈する魂[4]」――の身体が、諸々の感覚的な目に現れることは可能であると判断していた。そしてイエスは、トマスを呼び寄せて次のことを言った:「あなたは、あなたの指をここに運びなさい。そしてあなたは、私の諸々の手を見なさい。そして、あなたはあなたの手を運び、私の脇腹の中に投げなさい。そしてあなたは、不信仰者でなく、信仰者になりなさい[5]」と。



[1] 後出のトマスのことを指す。

[2] 「抵抗的な」と訳した原語(avnti,tupon)は、ストア派の用語。

[3] Jn.20,25.

[4] 省略

[5] Jn.20,27.

 

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