62 そして、彼について預言されたすべての諸々の事柄――それらの中に上のことも含まれている――と彼によって実践された諸々の事柄と(それらと)共に起こった諸々の事柄の必然的な結果として、すべてに優るその逆説は起こった。実際、(預言者ダビデは)イエスの口を借りて、預言の中で次のことを予言した:「私の肉は、希望の上で野営するでしょう。そしてあなたは、私の魂を黄泉の中に入れ置かないでしょう。そしてあなたは、あなたの敬虔者が腐敗を見ることを許さないでしょう[1]」と。そして実に、受難前の身体の厚みとそのような(厚みのある)身体を脱ぎ去った魂とのいわば境界のようなものの中で彼が現れたのは、彼の復活のときだった。それが起きたのは、「彼の弟子たちがおり、トマスも彼らとともに同じところにいたとき、イエスは、諸々の扉が閉められているのに(入って)来て、真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言った。次に彼はトマスに『あなたの指をここに運びなさい』云々と言った[2]」ときだった。また、『ルカによる福音』の中でも、シモンとクレオパが「自分たちに起こったすべての諸々の事柄について互いに談話していたとき、イエスが彼らのそばに立ち、彼らと一緒に歩いた。しかし彼らの諸々の目は、彼を覚知しないようにさせていた。そして彼は彼らに対し、『あなた方が逍遥しながら互いに交わしていた諸々の話は何であるか』と言った。そして、彼らの諸々の目が開かれ、そして彼を覚知した」そのとき、()文書はまさに諸々の言い回し通りに(引用すると)次のことを言った:『そして彼は、彼らから不明者になった[3]」と言っている。たとえケルソスが、イエスに関する復活後の諸々の事柄と(復活後に)彼を見た人たちを、他の諸々の幻と幻を見た人たちとに共通化することを望んでも、慎重かつ思慮深く吟味する人たちにとって、それらの諸々の事柄はより逆説的なものに見えるだろう。



[1] Ps.15,9-10.

[2] Jn.20,26-27.

[3] Lc.24,14-17,31.

 

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