64 イエスは一人であるが、エピノイア(観点)においてより多くのものであったのであり、見る人すべてに等しく見られたのではない。そして、彼がエピノイアにおいて多くのものであったことは、次のことから明瞭である:すなわち「私は道であり、真理であり、命である」ことから、そして、「私はパンである」ことから、そして、「私は入口である[1]」など、その他の無数の箇所から。そして、彼が見られたとはいえ、見る人たちに同じような仕方で現れたのでなく、見る人たちが許容した限りで現れたことは、次のことに注意する人たちには明瞭だろう:すなわち何故に、高い山の中で変容しつつあるとき、すべての弟子たちを連れて行ったのでなく、ただペトロとヤコブとヨハネだけ――当時の彼の栄光を観想するすることができ、栄光の中で見られたモーセとエリアを知覚することができ、彼らの対話と、天来の雲からの声とを聞くことができる彼らだけ――を連れて行ったのか(に注意する人たちには明瞭だろう)。しかし私は次のことを思う:すなわち、彼が山――そこでは弟子たちだけが彼に近づくことができ、彼が諸々の至福についての諸々の事柄を彼らに教えた――に登る前にも、彼が山の下のどこかにいて、「晩になったとき」、彼に近づいた人たちを癒し、一切の病気と一切の脆弱さから(彼らを)解放したとき、同じ彼が、彼からの癒しを懇願する人たちに現れたのでなく、健康である故に彼とともに山に登ることができた人たちに現れたのでない。そればかりか、私的に自分の弟子たちに、外部の群衆たちに隠蔽とともに語られた諸々のたとえ話を解き明かしたとすれば、諸々のたとえ話の解き明かしを聞く人たちは、解き明かしなしに諸々のたとえ話を聞く人たちよりも、諸々の聴覚において優っていたのと同様に、実に魂の諸々の視覚においても、また私が思うに身体の諸々の視覚においても(彼らは大衆に優っていた)。次のことも、同じ彼が常に現れていないことを明示している:すなわち、彼を渡そうとしているユダが、自分のところに来る群衆たちに、彼らが彼を知らないかのように、「私が接吻をする人が彼である[2]」と言ったこと。そのようなことを、救い主自身も次の言葉を通して示していると私は思う:すなわち、「私は毎日、神殿の中で教えながら、あなた方と共にいた。そしてあなた方は私を捕まえなかった[3]」。多くの人たちに隠された屋内の神性に即してばかりでなく、変容された身体――彼が望んでいた人たちに対して彼が(変容することを)望んだときの身体――に即しても、それほど偉大なイエスの周りに連れてこられた我々は、次のことを主張する:すなわち、「諸々の支配と諸々の権能」を脱ぎ捨てず[4]、まだ「罪において」死ななかったイエスを[5]、すべての人たちは見ることができた;ところが、「諸々の支配と諸々の権能」を脱ぎ捨て、多くの人に見られ得ることを許容するものをもはや持たない彼を、以前は彼を見ていたすべての人たちは、見ることができなかった。そこで、彼は復活すると、彼らを惜しんで、すべての人たちに現れなかった。



[1] Jn.14,6; 6,35; 10,9.

[2] Mt.26,48.

[3] Mt.26,55.

[4] Cf.Col.2,15.

[5] Cf.Rm.6,2.

 

次へ