65 しかしなぜ私は、すべての人に(現れなかった)と言うのか。なぜなら彼は、ほかならぬ使徒たちと弟子たちとも常に一緒にいなかった、あるいは現れなかったからである。実に彼らは、彼の観想を絶え間なく受け入れる余地を持たなかった。なぜなら、経綸を成し遂げた彼の神性は(以前よりも)いっそう輝いていたからである。その神性を、ペトロであるケファ――彼は使徒たちの「初穂」のようなものであった――が見ることができた。そして彼の後で、十二人が(見ることができた)。なぜならマティアがユダの代わりに(使徒に)選定されたからである。そして彼らの後で、「五百人の兄弟たちに一度に見られた。次いでヤコブに見られた。次いで十二人に加えて、他のすべての使徒たち、おそらく七十人に見られた。そして、すべての人たちの最後に、未熟児のようなパウロに見られた。彼は、どのような意味で次のことを言ったのかを知っていた:「すべての人たちによりも小さい私に、その恵みが与えられた[1]」と。そしておそらく、「よりも小さい」という言葉は、「未熟児」という言葉と同等だろう。したがって人、イエス――変容して、自分自身の諸々の衣服の輝きと、自分と会談するモーセとエリアの栄光とを示そうとして、すべての使徒たちでなく、前述の三人だけを高い山に連れていったイエス――を品よく批判できないように、人は諸々の使徒的な言葉――イエスは復活の後ですべての人に見られたのでなく、彼の復活を見ることを許容する諸々の目を持つ人たちに見られたことを(聖文書に)導入する諸々の言葉――を理に適った仕方で非難できないだろう。

彼について次のように言われていることも、前述の諸々の事柄の弁明のために有益であると、私は思う:「実に次のことのために、キリストは死に、そして復活した。それは、彼が死んだ者たちと生きる者たちの主になることである[2]」。実にあなたは、それらの言葉の中で次のことを見てください:イエスは、「死んだ者たちの主になるために」死んだこと、そして、「死んだ者たちばかりでなく、生きる者たちの主にもなるために」復活したことを。そして使徒は、キリストが主になるところの死者たちは、『コリントの人たちへの第一の手紙』の中で次のように登記されている人たちであると思っていた:「トランペットが鳴るでしょう。そして死んだ者たちが不滅の者たちとして起こされるでしょう[3]」;他方、生きている者たちの方は変化されるであろう者たちで、復活させられるであろう死者たちとは異なっていると(使徒は思っていた)。それらについて次のような内容の表現がある:「そして私たちは、変化されるでしょう」。その表現は、「死者たちが先ず起こされるでしょう」という言葉に続いて言われている。そればかりか彼は、『テサロニケの人たちへの第一の手紙』の中でも、別の諸々の表現の中で、同じ違いを提示して、他の人たちは眠りにつき、他の人たちは生きていると主張し、次のことを言っている:「兄弟たちよ、私たちはあなた方が、眠りについた人たちについて無知でいることを望みません。それは、希望を持たない他の人たちと同じように、あなた方が悲しまないようにするためです。実際、もしも私たちが、イエスは死んで復活したことを信じるとすれば、同様に神は、イエスを通して眠りについた者たちをも彼と共に導くだろう。実に私たちは次のことを主の言葉の中で言う:すなわち、生きている私たち、主の臨在まで生き残らされている私たちが、眠りについた人たちに先んじることはありません[4]」と。しかし、それらの箇所について我々に現れた解釈を、我々は、『テサロニケの人たちへの第一の手紙』に関して口述した諸々の注解の中で披露した。



[1] Cf.1Co.15,5-8.

[2] Rm.14,9.

[3] 1Co.15,52.

[4] 1Th.4,13-15.

 

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