66 そしてあなたは、イエスを信じた群衆たちのすべてが彼の復活を見なかったのかどうかで、驚かないでください。彼らが多く(の観点)を許容していないようなことを、パウロはコリントの人たちに書いて言っている:「私はあなた方の中で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたこの方しか知らないことに決めました[1]」と。次の言葉も、そのようなことである:「実際、あなた方はまだ(食べることが)できませんでした。今でもまだあなた方はできません。なぜならあなた方はまだ肉的だからです[2]」と。したがって、そのように神的な判断によって万事を行うみ言葉は、イエスについて、彼が受難の前はより多くの人たちに単純に――しかも常にではないが――現れたが、受難の後は同じような仕方で顕現したのではなく、各人にとって必要な諸々の事柄を測る何らかの判断を伴って顕現したことを書き記した。そして、「神がアブラハムに――あるいは聖なる人たち地の誰かに――見られた[3]」こと書き記されたように、そして、その「見られた」ということが常に起こったのでなく、諸々の間断から起こり、しかも彼がすべての人に現れたのでないように、どうかそのように、神の子も、神がかの人たちにのために、彼らに見られたのとほぼ同じ判断によって見られたと、あなたは理解してください。



[1] 1Co.2.2.

[2] 1Co.2.2.

[3] Cf.Gn.12,7; 48,3.

 

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