彼は、「他の多くの人たちが、欺されることを望む人たちに対して、イエスのようになりすますことができる」と言う。しかし、ケルソスの許のユダヤ人は、多くの人ではなく、僅かな人ではなく、たった一人が――イエスがそうだったように――自分の中の力をもって、言葉と生活に有益な学説とを人間たちの種族の中に導き入れ、諸々の罪の洪水から転向させる人になり得ることを示すべきである。さらに彼は、「キリストを信じる人たちから、ユダヤ人たちに対して、彼らがイエスを神として信じていないという非難が突き付けられている」と主張する。それについても、以前の諸々の個所の中で、我々は前もって弁明した――どのような意味で我々が彼を神であると理解してるか、そしてどのような点で我々が彼を人間であると言っているかを示しつつ[1]。しかし彼は言う:「不正な人たちを懲らしめに来る方が神から来るだろうと、すべての人間たちに説明した我々が、どのようにして彼を侮辱したか」と。このまったく浅はかなことに対して弁明することは、理に適っていないように私に見える。それはあたかも他のある人が、節制することを教える我々がどのようにして放縦なことをしたのか、あるいは、正義に関して扱う我々がどのようにして不正を為したかと言うようなものである。実際、それらの事柄が人間たちの中に見出されるように、到来するであろうキリストについて語る預言者たちを信じたと主張する人たちが、預言された諸々の事柄に従って来た方を信用しないのは、人間的だった。

さらに、他の理由を付け加えねばならないとすれば、我々は、まさにそのことを預言者たちも預言していたと言うだろう。実際、イザヤは明らかに言っている:「あなた方は聴覚によって聞くだろう。そしてあなた方は理解するな。そしてあなた方は見ることによって見るだろう。そしてあなた方は悟るな。なぜなら、その民の心は肥大したからだ[2]」云々と。そして彼らは、我々に言うべきである:ユダヤ人たちは何を聞き、何を見て、彼らは言われた諸々の事柄を理解しないだろう、見られる事柄を然るべき仕方で見ないだろうと彼らに預言されているのか、と。とにかく次のことは明らかである:すなわち、彼らはイエスを見たが、彼が誰であるかを悟らず、彼の話を聞いたが、言われた諸々の事柄から彼の中にある神性[3]――ユダヤ人たちに対する神の監督を、彼を信じた異邦人出身者たちに向け変える神性――を理解しなかった。実際、イエスの到来の後、ユダヤ人たちが完全に捨て去られ、かつて彼らによって神聖であると見なされた諸々の事柄を何一つ持たず、何らかの神聖が彼らの許に存在することのしるしをまったく持たないのを(我々は)見ることができる。さらに、預言者たちも、諸々の奇蹟――それらの諸々の痕跡をある程度、キリスト者たちの許で、しかも幾つかは「もっと大きなもの[4]」が見出させる――もない。そして(こう)言う我々が信用できるとすれば、我々も(それらを)見たことがある。また、ケルソスの許のユダヤ人は言う:「なぜ我々は、我々が予め宣べ伝えた方を侮辱したのか。それは、我々が他の人たち以上に懲らしめられるためか」と。それについても、次のように言うことができる:ユダヤ人たちは、イエスに対する不信と彼に対して行った他の諸々の侮辱との故に、信じられている裁きにおいて他の人たち以上に苦しむことになるばかりでなく、既に苦しんでいる。実際、ひとえにユダヤ人以外のどのような民が、固有の母なる都から追放され、父祖伝来の祭儀に固有の場所から追放されたのか。彼らは、他ならぬ、我らのイエスに反対して敢行された諸々の事柄のゆえに――たとえ彼らが多くの罪を犯したとしても――卑賤な者らとしてそのことを苦しんだ。



[1] Cf.C.Celse.I,67,69.

[2] Cf.Is.6,9-10.

[3] Cf.Mt.21,43.

[4] Cf.Jn.14,12.

 

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